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登山とふうたろう

2010年 4月 5日

 昨日の五竜岳登山、何であんなことになったんだろうと、実は今日、好日山荘に行って店員の人と話して、改めて考えていました。
 光岳まで、不安を抱えながらも、山を楽しんでいたと思います。それは間違いなく。

 でも、その次の週、五竜岳登山1回目で、吹雪で撤退することになってから、何かが変わったような気がします。
 ふうたろう、日本百名山のクリアを、手間をかけて楽しく行おうという気持でいました。しかし、一方で、この百名山のクリアを、相当焦ってもいます。
 なぜ焦るのか、ネームバリューだけか。ネームバリューは大きいかもしれないけど、ふうたろうは、「山は確実に逃げていく」と、常に思って生きています。いつまで百名山クリアなんて言っていられるかと。それどころか、山登りを毎週のようにたしなむことができるのはいつまでかと。
 収入が途絶えるかもしれないし、体力が衰えるかもしれないし、いつ身体が動かなくなるか解らない。うつ病とかで何もやる気が起こらなくなるかもしれないし、自分の山好きを維持できるかどうかも、本当のところ解らない。何より、ふうたろうから、山を取り除いたら何も残らないとさえ思っている。山の美しさに魅了された裏には、そういう強い不安ばかりがある。
 たぶん、山に対する焦りは、そういうところから来ているんだと思います。もちろん、過剰な自信はあるだろうけども、焦る原因がなければ西遠見山で引き返せたかもしれないし、どんなでも五竜山荘で引き返せたはずです。あれほどの雪景色だけ楽しんでのほほんと帰ったことでしょう。好きな人がいれば、その人に全身で美しさを表現していることでしょう!
 …今回の無茶な行動は、そういう日常の哲学があるのだと、改めて思いました。
 どんなに体力があっても、どんなに技術や知識があっても、それだけで生きていけないのが人生なんだと思います。少なくとも、山に登っていると、そこで生き抜くには体力と技術だけではまったく足りません。天気やこれから歩む道を見極める、「山との距離と関係」を知ることが大事なのでしょうか。ふうたろう、人との距離と関係を築けないと思っていたら、山とのそれらもまた築けていなかったのでしょうか。
 でも、どうすれば?
 山登り→趣味
 制覇を急ぐこと→嗜癖
 この辺りに境界線があるみたいです。
 でも、そんな表面的なことをやめようとしても、根本的な日常的な不安を取り除かないと、何も変わらない。じゃあ、どうすれば?
 一番は、「山を取り除いたら何も残らない」という強い自己否定感です。山に行けなかった週明けのショックはその否定感による鬱です。小遠見山に登っただけでも立派な登山なのに、それに満足できず週明けからずっと鬱だったのは、言わば「麻薬中毒」状態です。嗚呼、いったい何を…。
 他にも、色々細かいことはありますが、すべては強い自己否定感から。まったく、どうやったら「ありのままの自分でもよい(=自己肯定感)」なんて思えるのやら、五竜岳の危険性並みに予測ができません。
 しかし、この自己否定感を取り除けるのも、自己肯定感を得られるのも、ふうたろう自身なんですね。五竜岳のドラゴンブレスに死にかけながら、「俺はこんな所下りられない」と叫んでいるだけではブレスに焼かれる以外になかったのですから。
 五竜岳の竜が教えてくれたのは、ある意味「生き抜く根性」なのかもしれない。良くも悪くも、あの山で、ふうたろうの「生き抜く根性」が試されたのだと思う。どうにか、それを下界でも発揮できないものか。


天気:雨(東京都板橋区・豊島区・埼玉県所沢市)

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