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自由に生きてみたいね

2010年 5月 11日

 今朝から雨。雨だと、どうも活気が出ないですな。晴れれば出るのかといわれるとそうでもないんだけど。
 出勤ギリギリまで写真をアップロードしたりして、時間を使っていました。一応、日記用の挿絵(?)のために写真を何枚か撮ります。
 今日のはポピーの仲間ですが、帰化植物と聞いたような気がします。


 …北海道の、羊蹄山をリタイアしたあたりから、やはりずっと気になっていたことがあるんです。
 ふうたろう、やっぱり自由に生きてないなあと、思うのです。山に行くことさえも。もちろん、あの風景を目の当たりにしたら、「来て良かった」「また行きたい」と思うのは確かなんだけど、一方で、「行かなきゃ」「続けなきゃ」「いい写真撮らなきゃ」「登頂しなきゃ」etc…などとも思っている自分が居る。
 吹雪に見舞われたとき、半ば強引に進んだ光岳。結果的に進んで最高の景色を見られたけど、吹雪が強くなってきた池口岳のところで、普通の人は引き返すんじゃないかと思う。普通の人は、「また来ればいい」と思えるんじゃないかな。でも、ふうたろうは、「ここで登らなかったらもう後がない」「っていうか、死ぬ」レベルではなかったかな。五竜岳の時も同じ。羊蹄山の時に諦めが悪かった理由も同じ。
 「ねばならない」方向と条件が許す方向とが同じであれば、何の問題もないけど、天候や体調等の自然条件が必ずしも意思と同じ方向に向くとは限らない。そんな時、「ねばならない」は辛い。進むも地獄戻るも地獄、なんだから。全然自由じゃないよな。


 山に限ったことじゃなくて、人に何かをプレゼントする、お祝いをする、声をかける、等々、働きかけに至っても同じ。どこか「相手が喜んだらいいな」という思いだけでなく、「相手を喜ばせなければならない」という強制力が働く。人から働きかけを受けたときも、純粋に嬉しいと思えることもあるけど、「嬉しがらなければならない」と思うことも少なくない。そういう「ねばならない」的な思考の癖が、純粋な感情を削いでいるような気がする。
 結局、感情まで他者に依存しているってことなのかね。山に登っているときも、登りきるかリタイアするかのどちらかに転ぶのは、成り行き任せなんだね。


 山相手でも人相手でも、それを失ったらもう後がないという強迫観念しかないのだと、認めざるを得ない。山相手でも人相手でも、楽しくやれている間は強迫観念は奥に引っ込んでるけど、けっきょく「後がない」と思いながらの付き合いなんて、思い切ったこともできないよ。ブレーキが壊れた車みたいであり、停止や速度調節のできないスキーみたいである。ほら、ふうたろうの苦手なものと同じじゃないか。
 ほんとうは、何があっても、「失敗したな、次はこうしよう。」と思える。山をリタイアしたことやあまり相手に喜んでもらえなかったことそのものを捉えて、次に進める。それは、山や他者を除いた自分自身を認めてやれているからだろうね、たぶん
 だから、クリティカルなのは自己肯定感。車やスキーと違って、自己肯定感は誰もが養うべきものだ。でもねえ、どうやって養うんだよ、そんなもん。ふうたろうに自閉症やアスペルガーの気があり、それがもし障害になっているのだとしたら、救いようがなくないかな。その気がないとしても、今更どうにかなるんだろうか。できるんだろうか。解らんぞ。まったく。
 自己肯定感とは、「ありのままの自分を無条件で受け入れる感情」というイメージだけど(要は無償の自己愛か)、そんな感情を持った経験は、生まれてこの方一度もない。誰かが持っているのだろうという想像はできても、自分が持っているところがまったく想像できない。周りを見ていると、やっぱりそれがある人は、周りの人間を巻き込んで幸せそうだ。その対偶もまた真である。悪循環だね。他者を変えることはできないのだから、自分で変わる(自己肯定感をどないかして手に入れる)しかないんだけど、もう、一人じゃ無理みたいだね。肯定のしかたそのものが解らんわ。
 ホント、笑顔を絶やさず毎日を過ごしているふうたろうの友人たち、尊敬というか、畏怖の念すら湧くよ…。


天気:雨(東京都板橋区・埼玉県所沢市)
覚え書き:NPT報告

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