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65年後のヒロシマ

2010年 8月 5日

 さて、今日こそ原水爆禁止世界大会の本番。気合い入れます。昨日までの体たらくでこれを終わらすわけには行きません。なお、この日の詳細は、別に改めて報告します。今日は日記として、大雑把に書きます。
 …が、宿泊に使っているホテルの朝食があまりにもしょぼくて、話になりません。
 何なんだ、このメニューの少なさは…。いや、野菜の少なさは…。


 まあ、それでも四の五の言っていられないので、食って出発。ふうたろうの分科会は、こないだ色々問題を起こしていたけども、結局希望通りの遺跡巡り。一番早い始まりです。ネコが、参加者の多く通る道の端っこで寝ていられるほどですか。


 体育館の剣道場ということになっていました、集合場所。かなり迷いましたが。


 さて、出発まで剣道場で中学生の朝礼みたいに並んで待たされました。そして、出発後も中学生の見学みたいに「先生」について歩きます。


 最初の行き先は?


 なんだか見覚えがないか?


 ええ、ここは、24時間以内に来ている広島城跡です。まずは入ったところにあるユーカリの被爆樹です。


 昨日よりもはっきり判るように撮っていきましょう。このユーカリの木は、ほぼ真南から熱線をくらっています。しかし、焼けた部分は判らないくらい、快復しているようです。


 ふと見ると、右翼の連中の街宣車が並んでいます。この被爆の地に何をしに来た?


 このコンクリートの残骸のようなものの地下には、司令部があったようです。これから地下に入りますとのこと。どこから…?


 この碑の横に、鉄格子で封鎖された場所があり、ガードマンが立ちはだかっています。許可をもらっているので入ることができます。


 これが当時の司令部。中にあったものはすべてなくなっているようですが、黴くさいというか、湿っているというか、何とも言えません。外の暑さに比べると涼しいという面もありますが。


 奥へ進みます。


 65年以上も経つとコンクリートもボロボロです。これでも補修したと言っていたかな…。


 この穴は電線などを通す穴も兼ねていたのかどうかは判りませんが、最奥部のコンクリート穴蔵の司令部から、空襲警報発令の指令を書いた紙を放り出す穴だそうです。司令官から、女子高生へ、渡されたそうです。
 原爆の日、1945年8月6日当日、司令部は、通ってはそのまま過ぎ去っていくこと4回を数える米軍機に、すっかり安心してしまい、空襲警報の発令が遅れていたそうです。その矢先、一発の原爆が爆発。外に多数いた市民は…


 ここには、大本営があったそうです。昭和天皇が出入りしていたという話だそうです。
 広島からは、アジアなどに軍が出撃していたそうで、ここはその司令部になっていたと言っていたっけ。


 広島城を出ると、そこには右翼の街宣車が大量にありました。交通渋滞が発生するほど。ふうたろうたちは、その街宣車の脇を抜けるように、次の逓信病院へ向かいました。逓信とは、郵便という意味だとか。
 なお、被爆遺跡として残っているのは、当時の外科病棟だけだそうです。


 逓信病院も爆心地から3km程度。3kmといえば相当な距離ですが、病院は大打撃を受けました。


 ヒロシマ日記というものを、蜂谷先生という人が書きました。
 蜂谷先生は院長で、翌年の5月くらいまで被爆者の治療に当たりました。被爆者だけでなく、被爆者の治療に当たっている人までが次々となくなっていくことに疑問を持ち、調査されたのです。しかし、アメリカはこの原爆のことを世に知られないようにするため、プレスコードをしきました。原爆に関する報道を禁止したのです。そのため、文学なども含めて、一切原爆のことを知る術がありません。ただ、このヒロシマ日記だけは残りました。個人的に、蜂谷先生が書いたものだから、残ったそうです。
 この日記は、多言語に翻訳されています。ぜひ、読みたいものです。


 当時にしてはとてもモダンな造りの病院だったそうです。窓が大きく、今では普通に見える形ではありますが。
 しかし、この窓の大きさが、災いしました。屋内にまで大量の熱線と爆風を送り込んでしまったのです。


 ここは元々消毒室。壁には一つの石けんを置く台があります。その石けんだけで消毒だなんて、どんな悲惨な状態だったか…。
 病院の中は、患者であふれ、嘔吐物その他で足の踏み場もなかったそうです。その中で治療に当たった医師たち、そして、放射能でなくなっていった医師たち。
 …ただの大きな爆弾ではない、原爆の恐ろしさです。


 これを見ると窓の大きさがよく判りますか。踊り場の壁いっぱいの大きな窓。外が、悲しいほど明るいではないですか。


 逓信病院のすぐ側に、被爆樹のアオギリがあったそうです。その被爆樹2世が今は元気に生きています。
 ところで、原爆で一瞬に人が蒸発する、という話がありますが、それは嘘だそうです。なぜなら、原爆の熱線は、その光線が当たった部分で初めて熱に変わるからです。その証拠に、熱線の当たっていない陰の部分は、人も木もそのままの状態で残っています。
 …ふうたろうも、その話を聞いて、嗚呼、そう言われればと、気持を新たにするのでした。だとすると、熱線を浴びて即死したより、しばらく苦しんで死んだ人がより多かったと言うことですか。よりむごい話ではないか。


 次にやってきたのは、放射線影響研究所。広島市の丘、比治山の上にある、ひたむきに最先端の研究所です。


 これは、日米共同研究機関。日本はともかく、アメリカがどの面下げて、何の研究をするのか。謝罪一つしないアメリカが。
 念のため、ふうたろうは、戦争だから謝罪する必要がなかったなどとは思いません。従軍慰安婦問題も、東京大空襲やこの原爆も、どちらにも過去の過ちを清算する義務が、敗者・勝者関係なくあると考えています。従って、アメリカの原爆は、絶対的に悪であり、謝罪すべき問題です。


 この放射線影響研究所、略して放影研は、ちょうど一般公開しています。中に入って研究の中身などを見ることができます。無料で。なぜ無料なのか、たぶん、…。


 血液の顕微鏡写真を見ることができるコーナーがあります。ここにあるのは、正常な血液。後で聞くところだと、スタッフの血液だとか。


 しかし、そういう知識コーナーは、放影研の本当の意味の目くらましだと言うべきでしょうか。この研究については、後に述べることになるでしょう。


 とりあえずふうたろうの好奇心をくすぐってやまないこの施設、30分の自由時間では、何も見られなかったも同然。


 とりあえず、ここを出て、次の場所へ。
 ここは陸軍の兵士たちの墓地。かなりの数の兵士の墓があったはずですが…。


 ここからの眺めはいい。こんなところで弔われるなら本望か?


 みんなも写真を撮る。


 遠くに似島が見えます。今日は空気も澄んでいてとてもよく見えています。


 しかし、実はこれは、市民から戦死という実態を遠ざけるためのものだそうです。何かそれを証明する資料があるわけでもないし、そもそもあるわけがないけど、なるほど、近くに「多数の」兵士(みんな誰かの子であり夫であるわけだ)の墓があればそれだけで反戦の感情が広がるおそれはあるわけです。


 この墓石、実は、放影研の建設の際、何もかも掘り返され、この墓石も、事もあろうにブルドーザで扱われたそうです。感情的なことではあるが、これを感情的なこと以外で述べる方法はなかろう。


 …残酷な研究施設の見学を終え、ふうたろうたちの遺跡巡り午前の部が終了しました。


 なぜか中学校で昼飯?


 講堂に集められて昼飯。暑い。


 この弁当はっ!!


 まあ、特に何も言うまい。


 午後からは平和記念公園の碑巡りです。このモニュメントは何というのか忘れたけど、真正面の原爆ドーム、真後ろの原爆資料館の中点とを、結ぶようになっています。


 原爆では多数の宗教者もなくなりました。このモニュメントは特定の宗派を表現するものにならないように、無宗教的なものを扱っているようです。…が、どう無宗教なのか、説明されてもよく判りません。


 千羽鶴がたくさん並べられています。


 これは韓国人の慰霊碑だったか。


 ここにはお寺があったようです。


 お寺の何の部分か忘れましたが、パーツになっている石柱の一部は爆心地側へ引き寄せられ…


 別のパーツは反対側に吹っ飛ばされたようです。


 この鐘は元安川を挟んで原爆ドームの反対側にあります。
 この鐘には世界地図が描かれていますが、国境がありません。


 この鐘は外にはよく響くが内にはあまり響かないようにできているそうです。みんなで入って確かめたりしていましたが(ここに映っている人たちは必ずしも原水禁参加者ではありません)、まあ、他の鐘で中に入って音を聞くことはないので何とも言えません。
 この心は、原爆に対する祈りが、内に出はなく外に、世界に広がることを願うものなのだそうです。


 鐘は外にはよく響くが中にはあまり響きません。…って言っても、他の鐘の中で鐘の音を聞くことがあまりないので何とも言えないのですが。
 この爆心地、今でこそ平和公園など、住宅地ではなくなっていますが、当時は繁華街であったり人が住んでいたりしたわけです。蒸発することはなくても、熱線や火災で即死した人も多く、一家全滅、近所全体が全滅というのも珍しくありません。
 ところで、広島県には老人が多いそうです。それは、こうして家族や近所などの知り合いが全滅したため、ある人が亡くなったかどうかを確認する人さえいず、当時の戸籍が抹消されないままだからです。
 骨が出てくればまだましなのでしょうか。海の満ち引きで死体が置きに流されれば、文字通り海の藻屑。この大量殺戮は、その人たちの生きてきたことそのものを抹消するものだったということです。


 某、子供2人と書いてあるのは、隣のどこどこに子供がいたとか何々さんという名字の人がいた、というレベルのことしか判らなかったことを意味するそうです。


 分科会の終わりです。最後は原爆資料館1階にある原爆時計です。核兵器が使われるたびに(実験も)、最期の核からの日数がリセットされる仕組みになっています。いつまで経っても核拡散が止まらないことを、これを見るとよく判ってしまいます。
 そして、最後はこの時計の歯車の仕組みで、時計が壊れる仕組みになっているそうです。この時計が壊れるまで核競争が続けば、破局するという意味を込めて。


 これは原爆死没者追悼平和祈念館。景観の関係で地下に拡張されています。ここには、被爆者たちの被爆体験記が収められていて、映像による再現も為されています。更に今日はたまたま、原爆の詩の朗読会があり、全国を行脚しているというグループのそれを聞いてきました。参加者にも朗読してもらうという、全員参加型。


 外に出てきたら空は曇っていました。曇っていたらここに原爆は落とされなかったかも知れないね。変わりに第二候補に落とされていたことでしょうけども。京都や新潟など。


 相生橋から見た元安川と原爆ドーム。


 原爆投下地点の目印にされた元安橋。当時と形は違うようです。


 原爆ドームの下から見上げてみました。


 この薄暗いすすけた建物の陰は、広島市中に広がっていたのですね。それどころか、建物そのものが残っている方が珍しかった…。


 最後は原爆史料館。茨城の仲間はここに入った人が多かったらしい。追いかけることが目的でもあった。もちろん、来たからには入っておこうという思いもあった。50円という格安の史料館。


 非常に多くの労力と資金で作られたのでしょうね。戦争の被害でこういうものが作られることは、実はそれほど多くないというのが、この日本の情けないところですね。例えば、東京大空襲なんて史料館、ないですね。各都市の空襲ごと、特攻隊の発進地ごと、強制労働のあったところごと、それくらいあっても罰は当たらないくらいです。


 焦げた三輪車。鉄も溶ける熱線でしたからね。


 この写真は、服の柄の部分だけが焦げているものです。熱線は、当たらないと熱に変わらないというところの証明です。着物を着ていた女性は、その柄の通りに火傷を負ってしまいました。


 ちょっと話が飛んでしまうのですが、間を挟む写真がありません。
 今日のスケジュールがすべて終わったので、みんなで食事です。ホテル近くの韓国料理屋で、鍋やチヂミなどをみんなで食べました。いや、約1名行方不明(?)だった人を除いて。
 しかし、二次会をホテル前の川沿いにあるカフェみたいなところでやったときは全員揃ったかな。


 これで本番の2日目が終わりました。報告のためにはもう少し詳細なところが必要ですが、ほぼ書けることは書き尽くしたと思います。必要なことは、後に何らかの形で追加するとしましょう。
 さて、明日は最後、閉会式。閉会と開会の方が多いような感じがしますが、どうしますかね。


天気:晴れ時々くもり(広島県広島市)

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