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今日もがんばる労働者

2006年 6月 20日

 今日は昨日の続きになるのかな。今日はそれほど感性が鋭くもなく、むしろ体は重く、辛かった。けれども、この前具合が悪くなったときに助けてくれたFさんのメールや、もろもろの事情を理由に鳴ったIさんの電話が、悪かった心のオーラを改善してくれた気がします。2人とも、違うところで働く、やっぱり「労働者」です。

 Fさんは教師で、Iさんは団体専従者。専門も対象も違うが思いは同じ。
 Fさんは昨日、子どもたちへ優しくなれたような気がしたそうです。僕は義務教育の9年間、かなり教育に苦しめられました。小学6年の算数のテストで「円錐(えんすい)」を漢字で書くだけで、教師からみんなの前で「キザだ」といわれました。いじめに関しては、加害者・被害者両方を味わいました。
 ところで、Fさん曰く、

「『嫌なことは、『嫌だ』って言うんだよ。』…そう言ってあげないと、先生の言ったことって子どもにとっては強制になる(なりやすい?:筆者註)んだよ。」

 彼女が常にそう行動できるとは限らない。それは彼女自身も言っていたことです。でも、そういう子ども想いの教師に僕が子どもの頃に出会えていたら、僕は今と違う生き方ができていたかもしれません。
 小泉政府によって、公務員は今、国民の敵扱いです。しかし、声を大にして言いたい。敵は公務員じゃなく、小泉政治だ。がんばっている公務員は、彼女のように、いっぱいいるんだぞ!と。
 Iさんの言ってくれたことはここではオフレコ。でも、僕の一身上の都合のために色々動いてくれていることが判りました。団体職員の彼は、幅広く、「色んな人を元気にする仕事」(Iさん)をしています。今、こうして僕が前より元気に活動できているのは、彼のような団体職員たちの努力に依るものです。
 専門も対象も、住む場所も働く場所も環境も全くちがうふたり。でも、僕を励ましている事実だけは変わりません。そして、僕以外の人をも喜ばせているでしょう。美辞麗句を並べていて、具合が悪い?それは、言葉のアヤで、常にそうでなければならない、必ずそうである、ということではありません。でも、ふたりが、違う目的で、違う環境や専門性をもって、同じ「人」に向き合っていることは事実です。

 労働って何?実は、これ、上記のふたり、この前や今夜話したとき、同じ意見だと思いました。「人のために何かをすることではない。」僕が感ずるに、「人のために何かして、自分が喜びを感じること」なのかなと。僕は今、「自分が喜びを感じている」だろうか。「人のためになっている」ことは何となく判る。頭で判る。でも、頭で判っただけで自分が喜べるのか?それよりも、長い通勤と、都会の喧噪と、季節感のない屋内生活に辛さを感じてないか?もっと人との交流を求めていないか?
 人のためだけでなく、自分のためにも労働者になれている(なろうと努力している)ふたりに、尊敬の念とエールを送りたいと思います。もちろん、僕もそういう「労働者」になりたいさ!

天気:くもり時々晴れ(茨城県取手市・東京都板橋区)

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