Home > 雑談 > 近親者なればこそ

近親者なればこそ

2011年 10月 27日

 ああ、もう木曜日だね。木曜日は毎週HKがあるので、これが来ると、もう終末期なんですよ、毎週の。山に行くのはいいんだけど、山に行く準備は、いくらふうたろうでもダルいのです。タクシー会社に電話とか、まじダルすぎます。でも、明日の朝にはしないとな…(ため息
 とりあえず、HKはふうたろうが平日の中でも職場から離れて人と話せる機会なので、ありがたいのです。しかし!


 今日はちょっと勝手が違っておりました。何というか、昨日の夕方職場から帰り際に起こったこととよりはずっと平和ではあるけども、似たようなことが起こったというか(ごにょごにょ
 …いや、大変な激論でしたなあ。仕事(実は議員の仕事なのでチョー忙しい)が長引いて21時前くらいに来たNさん、自分の言っていることが伝わらなくて苛ついていたし、ふうたろうも何となく正論ぶちかますだけの人間みたいに扱われて不愉快な思いをしました。
 ここで話したことを具体的に述べるわけにはいかないので、一般論的に述べます。
 人間、理屈では正しくても、勇気が出ない、知識がない、技術がない、仲間がいない、など諸々の要因で行動に移せないことはよくあります。ふうたろうが、今の職場から羽を生やしてプーンと飛び立ちたいと思っても、やりたいと思っている農業を取り巻く情勢はご覧の通りであり、勇気もない、手段もない、カネもない。そういうところでしょうか。


 理屈では判っていても行動できない相手に対してものを言うとき、行動できないから逃げ道を作るのは、ひとつの手として正しいと思う。しかし、その逃げ道を進むだけでは解決には繋がらないことを知っていることが前提だとも、同時に思う。それは本人の自覚を待つものだと思うし、それが近親者であればなおのことそうであろう。ただ、ふうたろうは、話を聞く側としては永久に逃げまどう者の道を造る気はない。それもまた、近親者であればなおのことそうであると思っている。
 ふうたろうらしく、山に例えよう。最近で言えば、日本二百名山四天王、ヤブのキングである安平路山に登るとき、縦走して片側でも公共交通を使わないとタクシー代はバカにならない。しかし、それでは、あの中央アルプス南部の縦走路のヤブはハンパなく、普通の感覚では行けない。ふうたろうはあのとき、必死で笹をかき分け、倒木を踏みつけ、進むことを決めて登頂した。疲れで吐き気をこらえながらも避難小屋まで行くことを決めたのだ。
 一方、安平路山を諦めるという決断も可能なのだ。奥念丈岳以降のヤブがキツすぎるので、越百山まで引き返して木曽谷にエスケープすることも出来る。タクシー代を諦めて往復摺古木山(一般ルート)経由で登頂するという決断もある。また、一緒に登る人を募って登るという決断も出来る。
 しかし、これらすべてに共通しているのは、安平路山という山に対する気持の決断はすべて自分でしなければならないこと。また、山に登ることを人生に例えるのだとすれば、安平路山を諦めてもその後の山を考えなければならない。当然、全部の山で逃げることは出来ないし、泣きついているだけでは山ヤとしては終わったも同然なのだ。
 …これを判った上で、逃げ道を作っているのかということを言いたいのである。相手を一生おんぶして山に登ることは、ふうたろうではあり得ない。ならば、相手(例えば妻だったり)が自立的に自分の登る山とルートを決めなければならない。それは、いずれは誰もがしなければならないことだとふうたろうは強く思う。
 今日はHKで話をしていて、それを言及したい思いに駆られたのだ。逃げ道を作るのはいい。しかし、その意味が解っているのか疑問に思ったので、議論を始めたのだ。


 …というわけで、ふうたろうはまた火薬を投下してしまったのですね。ふうたろう自身も、それほど厳しい社会の中に分け入ったわけでもないのに、随分偉そうなことを宣っているんだけども。実際、職場の不正をただすのは並大抵ではないと思う。相手がでかい立場・組織であればなおのこと。だからこそ、ほんとのことを言えばやるべきことくらいは知っておくのは義務だと思う。やれるかどうかは二の次。相手(近親者)を思う気持ちがあればこそ、そこはシビアであるべきなのかなと思う。
 …ふうたろうは、過去の関係のような過ちを繰り返したくはない。


天気:よりによって快晴(東京都板橋区)

Comments are closed.