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学問や人々の生活は誰のものか

2011年 12月 21日

 昨日の夜、家の近くの雑貨屋に行って、ぬか床を入れる容器を見繕ってきました。容器に使ったのは、職場に置いておくべきぬか床は普通の漬け物樽ですが、家で使うのは漬け物樽だとでかすぎるので、カブトムシの虫かごです。容量は一人分であれば十分であり、これにキュウリと山芋あたりを1本ずつ毎日漬けていれば、たぶん漬け物としてのおかずには事欠かないでしょう。


 ふうたろうの家の近くにはホームセンターなんてものはなく、こういうものを手に入れるには、この雑貨屋が頼り、です。しかし、ホームセンターがあっても、この雑貨屋を選んで買いに行った、かもしれません。
 郊外のベッドタウンだと、ほぼ間違いなく近郊にホームセンターがあります。あるいは、100円ショップとかが。ある程度安く、大量に仕入れ、従業員の殆どはアルバイトだろう、と思います。まあ、もうここまで書けばあとは同じなので、いいかなと思いますが、ふうたろう一人分、そういう流れには抗いたいという思いもあるのですよ。それに、こういう個店は、店の主たちと話をすることも醍醐味。今はそれが嫌だとか言う人もいるようですがね。
 しかし、震災を思い出せばいい。その大型店が流通のストップで使えなくなれば、渋滞で店に向かうこともできなくなれば、手のひらを返したようにそういう雑貨屋にも駆け込んだはず。あれほどの大規模な震災だと緩衝能力を超えているのかもしれないけど、小さな店が各地域に多数存在していれば、地域全体的にはつぶしが利く(もちろん、潰された店は最大限補償されたい)。店だけではなく、工場だって同じです。国内に数カ所の大規模製造所が被災して、納豆や牛乳が製造できないと騒いでいた頃がそう久しくもない。
 …と言っても、これは多様性の経済的実利から見た話。店主のおばちゃんや客とのふれあいは、文化的実利だと思いますが。
 そう、話はまったく変わりますが、学問にも経済的実利文化的実利があると、去年あたりの日記で書いた覚えがあります。
 昨日というか、今日の未明、少し友人とのメッセージのやりとりがあって、ふうたろうはこのことを思いだしたのです。ふうたろうは、つくづく、経済的実利には興味を持たない人間なんだなと、思ったところです。それを持ち出すときは、ただの方便でしかないということです。
 ふうたろうは農学部でした。そこにあった研究室は色々ありましたが、昔ながらというべきか、基礎学問的な研究をテーマにしているところはあまり目立たなかった。キシャヤスデという生物の繁殖についてとか、雪氷学とか、覚えていてそのくらい。他は、食品機能学、畜産製造学(乳酸菌)、その他分子生物学レベルの食品機能を扱った研究室雑多(黒笑)…。「学」と名前を付ければ何でも学問になるのかと思うほどだけど、未知のことを探求するのではなく、技術や利益を生む産業などの開発に傾倒している研究室がなんと多いことかと。確かに、技術を産むには未知の開拓が必要ですが、それは本当に"学問"か、と。技術開発は学問なのか、と。技術はそもそも基礎学問の利用形態のひとつでしかないのではないか、と。
 例えば、これは前にも書いたのですが、ダイオキシンについて学問レベルで研究しようとすれば、ダイオキシンの化学的性質を知るところから、生体内での動き、環境中での動き、などの基礎があります。しかし、その毒性を、ということになれば生体内での動き(生化学)の応用です。その環境破壊を、ということになれば、もっと複雑な基礎科学の理論的応用、ってことになるでしょう。発生を抑えることを、となれば、化学的性質や合成化学の応用でしょう。
 もちろん、人間にとっての好都合・不都合が出てくるからこそ、研究対象にもなり、基礎学問への還元もあり得ることは確かだと思います。でも、あまりにもその技術開発系への傾倒ぶりが浅ましい。ダイオキシンの化学的性質を研究する分野があってもいいじゃないか。毒性に関係なく、体内動態を追いかける研究があってもいいじゃないか。ふうたろうが研究した内容で言えば、キノン(ダイオキシンは"キノン"ではない)と呼ばれる形態の化学物質の体内動態を追いかける実験や思考があって何が悪い?"キノン"に毒性がなければ、その体内動態は追いかけてはいけないのか?…技術開発だけへの傾倒というのは、そういう意味で浅ましいのです。
 まさに、街から雑貨屋が消えてホームセンターにモノと人が集まることも、学問界が技術開発に傾倒していくことも、如何に日本が経済的実利だけで物事を見ているかを考えさせるものです。学問も人々の生活も、経済界だけの持ち物じゃない。


天気:晴れ(東京都板橋区)

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