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取り残された動物たち、そして人々

2012年 7月 19日

 今朝、甲斐鋸岳最終日の日記を何としても書き上げてしまう気概でいました。しかし、起きるときの身体のだるいことよ!精神的にどうとかじゃなくて、マジこのところのカレンダーが(仕事除いて)凶悪です。月曜のノーマル平日がここ4週間のうち3週間分無くなっているので、山には行けてMP(精神力)回復する一方で、HP(体力)が減る!だから、夜、起きていられません。朝も起きられません。
 が、ちゃんと炒飯の研究と日記の更新は続けなくてはなりませんから。
 一応、鋸岳の日記を書き終え、今朝の分の炒飯もガッツリ作りました。高知県産減農薬バレンシアオレンジのオレンジピールを入れてみました。こぶみかんの葉っぱの代わりです。


 さて、今日は5月24日に「臨界幻想」を公演してくれた青年劇場の劇のお誘いを受け、再び見に行きます。今日の演題は「明日咲くサクラ」
 福島第一原発による災害で放置された動物たちの話、とは聞いていましたが、具体的にどんな話なのかは、今日実際に見てみるまで、殆ど判りませんでした。


 青年劇場スタジオ結という劇場はどんな場所かと思いきや、とても小さな地下室でした。この狭い劇場で、大きな木のような大道具とベンチ一つで何をやるんだろう…。


 話はアンパンマンのテーマで始まります。

 何が君の幸せ
 何をして喜ぶ
 判らないまま終わる
 そんなのはいやだ

 「タロウ」が「大きな木」の下でボーッと歌いながら「マキちゃん」を待っている。そこに「ツネオ」が通りかかる。帰ってくるはずがないと思っているツネオは、タロウをからかう。更にそこに来た「モモ」もからかう。しかし、タロウは「明日は必ず来る」とマキちゃんを待ち続ける。
 ※彼らがいったい何ものなのか、劇の前後で解説はまったくない。最初、人間同士のやりとりなのかと思ってみていたが、どうも、違和感がある。なるほど、彼・彼女らはみな、何らかの動物役をやっているのだ。
 ツネオは(大阪人のふうたろうからしても)関西弁っぽく、自由になったことを喜んでいる。「施設」が倒壊して自由になったことを。しかし、それはツネオだけだった。「キヨシ」や「ハナヨ」、その他の「仲間たち」はキヨシのリーダーの下、決まりを作って「旭山(朝日山?)」で集団生活を送っている。
 タロウはツネオやキヨシ、ハナヨとは「違う」。キヨシたちはそう語る。
 モモはギャル風の「女の子」だが、「家族に捨てられた」。彼女がタロウやツネオの前に現れたとき、そう語った。
 なぜ、ツネオは自由になったことを喜んでいるのだろう。なぜ、キヨシは仲間たちを集めて山で集団生活をしているのだろう。なぜ、タロウはマキちゃんを待っているのだろう。なぜ、モモは家族に捨てられたんだろう。
 「施設」とは、山田牧場という牧場のことである。ツネオ、キヨシ、ハナヨは肉牛および乳牛である。タロウは「タロー」が正しい名前だが、牧場主のその娘の飼い犬である。その娘の名前が「マキちゃん」こと真紀である。モモは被災した別の家族の飼い猫である。そして舞台となっている大きな木とはサクラの木なのである。
 ツネオたちは山田牧場が地震(東北地方太平洋沖地震のことだろう)で倒壊したあと、原発災害によって人が入れなくなったため、取り残された。牧場主の山田は餌を4日分置いて、去った。真紀は前日、「明日来るから」と告げていたが、夏(地震は春先)になっても来ない。ツネオは肉牛なので屠殺される運命にある。ハナヨは乳牛として毎年子供を産まされた挙げ句、乳が出なくなればやはり屠殺される。キヨシは種牛である。ツネオと、キヨシたちとは、離れてはいるが、山田牧場に戻りたくないのである。自分たちの「天寿を全う」する、それが自由なのだという思いは一致している。
 タローは、山田が帰ってくることを信じて待っている、いや、帰ってくることを強く願っていると言った方がいいのかもしれない。それゆえ、キヨシやハナヨ、その仲間とは対立している。ツネオもそれに対しては対立している。
 ところで、モモはそんな一途なタローに恋心を抱いている。もちろん、ネコがイヌに対して、なので叶わない恋なのだが。モモは避難所で余震がある度にパニックを起こし、避難民たちに迷惑をかけた。正気に戻れば、自分の家族(飼い主たち)に辛い思いをさせていることが判るため、自分から避難所のフェンスを乗り越え、出て来たのだ。飼い主である家族も、涙を浮かべながら、見ぬふりをして見送ったのである。
 ある日、ハナヨがひとり(一頭?)でツネオたちの前に現れた。何と、「人間たちと闘うんだ!」と息巻いていたキヨシたちが、旭山で死んだというのだ。理由が、ボランティアたちが置いていった餌だそうだ。牛は反芻動物なので、普通の餌を食べ続けることはできない。草を食べ、それが第2胃でバクテリアの力を借りてさまざまな栄養素になることで生を得ている。牧場主の山田であれば当然知っている知識であるが、ボランティアたちにそれを知る術はない。しかし、殆ど餌のない状態で、その山田の言いつけを守れたのはハナヨくらいだったようだ。
 秋になったある日、タローは、ボランティアたちが飼い主の元に返す活動をしていることを知った。タローは悩む。その迷っているタローに、ツネオは「二度と帰ってくるな!」と、向かわせる。ツネオにとって、タローは愛すべき存在だった。やってきたモモにもそう語る。
 …が、タローは帰ってきた。飼い主のところに必ずしも帰してもらえないことがあることを、他のイヌたちに聞いたらしい。餌だけ持って、帰ってきた。何も食べていないツネオやモモが食べる分もあるくらいに。
 タローが誕生日を迎えた。モモとツネオと3人(3匹?)で祝った。タロー曰く「エアーキャンドル」にモモが火をともして。キャンドルの下には、大阪名物の粟おこしのカケラがあり、それを三人で食べ、祝った。が、ちょっとしたことでタローとモモがケンカになった(※何でケンカになったのかを忘れてしまった)。モモがその場を飛び出していくので追いかけようとしたツネオが、足の骨を折ってしまった。
 冬になった。餌がない。ツネオは怪我をしている上に熱があるようだ。タローが看病し続けている。山田も帰ってこない。そこに、ハナヨが現れた。仲間を連れて、旭山を去るというのだ。餌(草)がもうまったくなくなってしまったのだ。別れ際に、ハナヨは言った。気を利かせ、タローは席を外す。
 「今はもう、乳が出ないの。でも、ツネオさんに飲んでもらいたかった。」
 「…ツネオさん、生まれ変わったら何になりたい?私は、サクラの花になりたい。何度も何度も咲くサクラに」

 そして、ツネオには人間になってほしいと言った。家畜の気持ちも判る人間に、と。
 タローがツネオの看病を続けている。しかし、餌も底をつき、水も雪しかない。ツネオは限界を感じている。おそらく、タローもだろう。ツネオは言う。
 「何でタローが人間に尽くすのかが判った気がするよ。」
 タローは、相手が喜ぶことが好きなのだと言った。
 ツネオは言う。
 「タロー、俺を食え。そして、食って、大人になれ。」
 タローにとって、それは二度と会えないこと、「本当に二度と帰れない」ことを意味する。土下座してタローは拒む。しかし、ツネオはタローの一部になり、そして人間に生まれ変わって、サクラの木に生まれ変わったハナヨを眺めるのだという。それが、ツネオ自身が望むことなのだと。
 タローはツネオの首を絞める(喉を噛む)。聞こえたのはタローの叫び声だけだった。
 一方、モモは身籠もっていた。ハナヨがここを離れる間際に、進言した。産み育てるように、と。なけなしの食料を、お腹の子のためにと置いて。
 翌春、ツネオのいないサクラの木の下で、タローは夢を見る。真紀の声が聞こえる。
 「もう一回だけ、タローに会いたかった。ごめんね。」
 轟音と共にその声が消え、タローはうなされながら目を覚ます。そこに、子供を抱えた(ベビーカーに乗せていたが)モモが現れる。タローはモモに言う。
 「俺も(子育てを)手伝おうか?」
 モモは快く承諾する。
 動物園から逃げ出したダチョウのアキラ(ことあるごとにシェイクスピアを詠む35歳)がそこに現れ、山田と真紀のことで仕入れた情報を、ふたりのいる前で話す。真紀は地震後の津波に小学校の校庭で呑まれ、亡くなった。山田は真紀を探し続けてやっと見つけたあと、身体をこわして1年入院していた。


 1時間45分の劇でしたが、とても長いですね。最初、原発に取り残された動物の行方を追いかけているだけなのかと思ったのですが、そうではないようです。キヨシたちや、またツネオも最初は、山田を、あるいは人間を、怨んでいたように見えます。タローについては、人間にこびた「キバの折れた」ペットだと。しかし、そうではありません。山田…牧場主や真紀は、ツネオたちのこともタローのことも、愛していたのだと思います。酪農家という最低限の「社会的責任」を果たせる範囲で、ではあるけども。4日分の食料を置いて去っていったのはなぜか。餌としての干し草にこだわった(これを牛側の目線で描いたのが今回の劇)のはなぜか(肉骨粉による狂牛病の話を絡めているのか?と勝手に思ったりもしたが)。
 モモを涙目で見送った家族も、モモのことを愛していないはずがない。避難所にいつまでも置いておかれた彼らも被害者なのです。ペットは当然家族。暴れ回ろうと、手放せるものですか。
 決して、「関わっている人間だけ」の都合で不遇な目に遭っているのではないでしょう。これは、以前に見た、「臨界幻想2011」と絡めて考えてみてもいいかもしれません。
 ふうたろうには、どうしても、動物や家畜たちと飼い主や牧場主たちとの関係が、被災者と非被災者との関係に似ているように見えます。否、それらは対立する立場ではなく、本来なら同じ側に立つべきものなのではないかと。
 牛を連れて東電に迫った農民がいました。原発を無くすために動く人々が多数生まれました。牛に政府や財界と闘うチカラはありませんが、牛に代わって闘えるのは人なんですよね。疲れ切った被災者だけでは闘えないかもしれませんが、被災者に立ち上がることを促すことは非被災者もできるんですよね、きっと。
 何かできることはないか、とは、ずっと思っています。でも、ふうたろうにはそれが解らない。
 ところで、一応最後に断っておきますが、台詞とかは、ニュアンスです。全部暗記とかできていたら、ふうたろう、劇団員になれるかもしれないので(笑


天気:晴れのちくもり(東京都板橋区・豊島区・新宿区・渋谷区、など)

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