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栗ごはんと一緒にやってきた日本の貧しさ

2007年 10月 1日

 今朝の起床は7時45分。昨日、やっぱり寝るのが遅くなってしまいました。そりゃ、2時過ぎたらダメだ。
 昨日の夜、中途半端な量の安いマグロ丼を食べたあと、お隣さんのTさんから、栗ごはんをいただきました。新米と、筑波の産直売り場で買った栗で作ったそうです。茨城県は、栗の名産地だそうですから。(この際、局所的大量生産については目をつぶる)
 もちろん、ウマかったですよ。温かいうちに食べられればいちばんだったのですが…。


 そういえば、昨日はこの栗ごはんの他に、回覧板が回ってきました。中身は、『赤い羽根共同募金』。やましいことに使うことはないだろう。公共の福祉に役立てるという名目で営々と生き延びているのだし。
 でも、僕は、こういう募金はやりません。
 あやかちゃんの時も書いたけど、こういう福祉は、国や自治体の税金で支えるべきだと考えるからです。なぜなら、僕らはちゃんと税金を払っているのですから。当時の公約が嘘であろうと、「福祉目的税として消費税を導入する」と述べているのですから。募金を求めるなら、政治的に、社会的にやるべき事があるはずです。そうでなければ、この前の参議院選挙の時みたいに、「食育」とか「予防医療」などの理念を掲げていても、それを果たすだけの力量・度量の無い政党と結びつく栄養士団体みたいになる可能性もあるのです。昨日のトヨタグループみたいなのと同じになる可能性もあるのです。
まるもゆきこホームページ(政策)
 あやかちゃんの時は、一応募金には応じました。が、あれは、我が職場の主任が繋がっていたため、特別でした。
 僕は、「一人一人が変われば社会が変わる」とか「愛があれば社会が変わる」とか吐いていく態度を、虫唾が走るほど嫌っています。なぜなら、それを唱える人の多くが、「社会の仕組みを変えなければならない」とは表現しないから。個人と社会を両方変える努力をしてこそ、社会は変わるのに。
 …だから、話し合いの機会も与えられず、一方的な形式で、片手落ちの団体にする寄付はありません。新潟の地震の時も寄付をしたのは、直接的な支援は当然のようにやった上で、政治・社会からの支援を得るために動いていた団体に対してでした。
 さっきも大和川(大阪府・奈良県)の汚濁とゴミの話をNHK教育テレビでやっていましたが、結局、ゴミ拾いと啓蒙で終わり。僕が高校生の時に討論したときも、班リーダーから返ってきた言葉は「社会のことは大きいから解らない」でした。

 栗ごはんの話からとんでもないところに話が飛んだけど、同じ世界で起こった話です。まったく関係ないということもないでしょうよ。

天気:くもり(東京都板橋区・茨城県取手市)

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