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しおれたじゃがいも

2006年 1月 13日

 昨日の夜、15日が雨のときのことを考え、榛名山以外のルートを考えていました。どうせなら、『風車の見える丘』に出てきた場所が良いと思い、「三喜町」を探してみました。すると、どうやらそんな町はないみたいで、検索に引っかかったのは関係のないページでした。が、試しにそのページを読んでみました。

 このページは日本共産党の参議院議員だった人のページで、日記の一部のようです。この本のあらすじはこの元議員さんの日記を見ればある程度解ると思います。そんなに長くはありません。

 しかし僕は、このページを読んで愕然としました。
 え、小林新たちの語り合いが「懺悔と受容」?要するに、受け身ってことですか??
 それは後に出てくる日記の文章から、そういうことだと解ります。この元議員さんの要点は、彼らが最終的に競争の原因となった社会的問題を解決するため、共通の敵と戦う組織への接触が必要だということです。
 僕も、そのことに対しては否定しません。現実として、教員の枠が少なかったり、利益のためならデータのねつ造も辞さない会社があったりする原因が、政治・社会の体制にあることは明らかだからです。けれども、この小説で運動論(上の太字)の部分まで立ち入る必要があるのかというと、それは否定しなければなりません。問題とどう向き合っていくかは一人一人が決めることだからです。
 僕からいわせれば、この小説は、ねじ曲がった競争意識というものが社会のゆがみからくるものだということを明確にしているだけで、充分なのです。今のほとんどの日本人は、自分が歪曲した競争意識を持つ原因が社会の中から生まれてくるということはおろか、自分に競争意識があることにすら気づいていないと思われるからです。気づいていても、自己責任にするのが関の山でしょう。
 不満はまだまだありますが、この辺で抑えとこう。

 今日、体調不良のために遅れて職場に行ったら、もう昼ご飯のみそ汁を作っている時間でした。冷蔵庫の奥から引っ張り出したらしい野菜包みの新聞紙の中に、ばっちりシワの入ったじゃがいもがありました。みそ汁のシェフである副所長はこんなことをおっしゃいました。
「こういうじゃがいもがおいしいんです。こんなにシワだらけになっても、必死で生きている。」
 ううむ…!そんなこといわれたら、なんだか愛おしくなるじゃないですか!写真を撮ってやれ!!

 みんながんばって生きてるんですね。ちょっと無理やりですね…

天気:曇り(茨城県取手市・東京23区西部)

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