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泣きに行ったのではない

2008年 1月 16日

 献花。
 …今日は、昨日の大会の続きの後、事故で亡くなった仲間を偲ぶ会に出ました。
 あれは、僕が屋久島で毒矢のような雨に打たれながら、縄文杉、高塚小屋、そして新高塚小屋へと向かっていたあの日です。僕が晴れと雨に一喜一憂しながら眺めていた空の向こうで、海に失った一人の仲間の命です。
 でも、今日は、その仲間を失ったことを泣きに来たのではありません。


 訃報を知らされた8月14日夕方、僕は屋久島南西部の青少年旅行村におりました。仲間といっても、部署が違うので殆ど話をすることもありませんでしたから、その報せを聞いても遠い話でした。
 僕はその時、
 「事故は、自分には起こらないと思っている。みんなそうなんだ!」
 そう、あのテントの中で叫んだのです。
 あれから5ヶ月。あれから直後の開聞岳(8月16日)を始めとして、安達太良山、苗場山、富士山、両神山、蓼科山、奥秩父三山、そして猛吹雪の剣山…。危険にも遭い、素晴らしい人にも出会った。
 そんな生と死の隣り合う山で、僕はしばしば彼のことを思いました。そして、自分があのテントの中で叫んだ言葉も。
 命がいつでも自分にあると思ったら大間違いです。人は、しぶといけど、それでも意外とたやすく死ぬのです。少しの物質のバランスが狂っただけで、ほんの小さな衝撃で、壊れてしまうのです。


 彼は、それ以降、僕らと一緒に活動することはなくなったわけです。やり残したこと、何より残してしまった家族や仲間のこと、彼に意識があったなら、きっと悔やまれたことでしょう。
 僕はあれからもずっと生き続けています。彼がやり残したことだって、できるチャンスはあるのです。…が、僕が務めている分析の仕事。アセトニトリルとトルエンの臭いにまみれ、見学者からは「地味だ」と言われながらも必ず励ましの言葉を受け、そしてそのたびに思う「このままでいいのか」。僕は生きているけど、今の条件を生かし切っているのか、十分生きているのか、と思うのです。
 でも、何もしていないというのも、違っているような気がします。日頃読んでいる文献、出先(主に山)で語る食の話、時々尋ねられる化学の知識…。それらは、僕の今の条件がなければやれないことのはず。新聞の記事を書いたり、新発見で世間をにぎわせたりはできなくても、自分の仕事を認めてやらないと、いつまでも「このままでいいのか」の答えは見えてこない気もします。
 何度も書いてきたことだけど、結局「やれることをやるしかない」。少なくとも、自分が今やっていることを正当に評価してやりましょう。

天気:晴れのちくもり(東京都豊島区・板橋区・埼玉県所沢市)

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