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感受性を失った日本人?

2008年 3月 13日

 ひどい画像です。うちのテレビのレベルの恥をさらしているだけかもしれません。
 齢20代後半にして、これを見ている人はどのくらいいるでしょうか。そして、これをみている人は、何を感じているでしょうか。
 毎週木曜は、『3年B組金八先生』上映会です。もちろん、一人で、ですが。
 今日は、最終回から2回目の感想です。

 数年前からの金八しか見ていませんが、金八の教育は、自主性と感受性を育てる教育だったと思います。これは、僕の感想なので、「違う」と言われる筋合いもないし、「違う」という意見こそ、違う

 金八は、ある理由で、担任を追われることになった。そして、最終的に、卒業式にも出られなくなった。
 始まりは、ある理由で、金八が担任していた生徒である森月美香が金八の家に駆け込み、一晩泊まったことだった。それを週刊誌の記者がスクープしようとした時、美香は国会議員である父親に「金八先生を助けてください」と言った。娘のアメリカ留学を望む父親は「アメリカ留学を条件として、助ける」言い、都立高校受験を望んでいた美香は決断を迫られた。
 …そして、金八は左遷は免れた。
 しかし、金八は担任を追われた。実はこれは、美香の父親の策略だった。彼は校長に圧力をかけ、金八を担任から外させたのだ。
 ある日、「ああいう担任は、美香にとって有害なんだ。…だから、日本人の学力が下がるんだ。」と母親に話をしていた。美香はドアの後ろでその一部始終を聞いていた。
 一方、B組の、美香以外の24人は、金八を担任にもどし卒業式に出席させるための署名を集めようと動き始めた。しかし、美香からことの一部始終を聞いたみんなは、その程度では動かせない事態だと悟った。かくして、卒業式前夜、体育館に立てこもった。ストライキである。

 …と、バックグラウンドはこれくらいでいいです。
 僕が思ったのはたった一つだけ。金八が教えた自主性と感受性そのものが、このB組全員の行動に繋がった、ということです。逃げない、何者にも寄りかからない、そういう自主性は、自己表現への必然です。立てこもりが正しいか間違っているかは別にして、自主性と感受性を育む、ということは、自己表現をする、ものを言う人間を育むということです。
 僕もついつい相づちで交わしてしまうことがあるのですが、「近頃の若者は…」という風に言われることがあります。
 それは違うんじゃないか?子どもたちから自主性と感受性を奪ってきたのは、その子どもたちを育ててきた大人たちの責任ではないのか?「近頃の若者」が子どもだった頃、あんたたちは何を教えてきたんだ?
 もちろん、本当に素晴らしい親や教師だっていることを、僕は知っています。だからこそ、そういう大人たちまで一纏めで見られるのが、余計に悔しいのです。悪貨が良貨を駆逐する、とはまさにこのことです。
 僕が見てきたのは、協調性を押しつけてきた教師たちが殆どでした。中学生まで、正直な感情表現の場なんてありませんでした。つい数年前まで、教師に強い不信感を持っていたのも、そのためでした。
 しかし、実は、教師そのものが諸悪の根源ではなかった。日の丸・君が代の問題の時は、実に明快だった。教師さえも国家の圧力によって感情表現を抑え付けられていたのですから。
 森月美香の父親は、あたかもその抑圧者の象徴です。
 奇しくも、森月美香の父親は、金八のことを「有害」と言った。そう、自主性と感受性と表現力と団結力ほど、彼らにとって有害なものはない。原理的に、支配することが出来ないのだから。

 だから、今、感受性を養い、表現力を付け、誰かと何かを一緒に成し遂げる力を付ける、ということは、「出る杭は打たれる」覚悟が必要です。
 居場所がなくなるんなら、当然、感受性・表現力を抑え付けるしかないですよね?KY(空気が読めない)なんて言葉で相手を繋ぐしかないですよね?
 もう一度言う。感受性を失った日本人を作ったのは、誰だ?

 そして、僕らがやらなければならないことは、一つしかないだろう。
 「自分の感受性くらい、自分でまもれ、ばか者よ」という、茨木のり子さんの詩を引用して終わります。

天気:晴れのちくもり(埼玉県所沢市・東京都板橋区)

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