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自己否定から肯定へ

2011年 10月 4日

 これは2006年8月16日、木曽御嶽山に登っているときの写真である。もちろん、この中にふうたろうはいない。
 当時、日本百名山なんてものは知らず、「山が好きだ」という割に、1年間に登っている数は、今の登山の1ヶ月分にも満たないレベル。今思えば、本当に山が好きだったのだろうか、とさえ思う。
 またこの頃、下界に下りれば、今以上に怠惰で残念な生活が続いた。定期的に孤独感に襲われる。せっかくの楽しい交流会などでも、自分の存在価値を見いだせないで人の輪に入っていけなくなる。ほんとに、落ち込んでばかりの人生だった。
 そんなふうたろうは、それでも人との出会いは嬉しかった。その瞬間は。一種のドーピングのようなものだった。離れれば孤独に戻り、苛まれた。


 2007年は、mixiで知り合った人と山に行くようになった。あの年の夏以降、時々出てくる女性がいた。しかし、所詮はふうたろうのドーピングである。無理が通れば道理が引っ込む。ただ自分の孤独を埋めるために存在する人なんてものは、この世にはいない。哲学のない付き合いはいずれ破綻する。そして、年末、悲惨な破局を迎えた。あれほど自分が傷つき、何より相手を傷つけたものは、そんなにはなかったはず。
 2008年、破局が尾を引いた。そういう関係を持って、ただで済むはずがない。この年は、その時なりに、必死で山に登った。しかし、案外それも、ドーピングだったのかも知れない。登っているときは幸福だった。しかし、下山すると何もかも失ったかのように落ちる。仕事も休みがちだった。そして、この年の後半から、ふうたろうは大荒れになった。
 2009年、大荒れになったふうたろう、3月におかしくなった。家から出たくないレベルにまでなった。1月から3月中旬までで登った山の数は、なんと2個。登山日数も2日だった。ずっと風邪引き状態が続いていて、欠勤日数もうなぎ上りだった。通っていた精神科医とのケンカ、職場本部とも勤怠の関係でもめまくった。周り全員から「なまけ者」と罵られているような気さえした。やる気の湧かない自分を責めた。しかし、それも誤った処方箋だった。
 2010年前半、ふうたろうの地獄はこのときまで続く。人間、何か、一種の諦めみたいなもので、開放されるものがあるのかも知れない。ふうたろうは、この職場でやりがいを無理やり感じようとしていたことに、ハッキリ気が付いた。転職を考えた。転職を考えたが故に、百名山のクリアを焦った。この年の前半は天気が荒れたため、焦ってもクリア数はまったく伸びなかった。
 2010年後半、ふうたろうに何かの転機が訪れたのか。それとも、天気が本当に良くなっただけなのか。5月下旬から、なんと10月下旬まで、1週たりとも休まず、山に行った。雨が降っても前向きに楽しめるようになった。下山してもパワーダウンしなくなった。もちろん、どうにもならない雨週末にはそれなりに落ち込んだが、以前のような孤独感みたいなものは、もはやなくなっていた。山に登っていると、そこにはふうたろうを励ましてくれる人がいることに、やっと気が付いた。いや、人だけではなく、自分さえもが自分を励ましていることに、気が付いたのかもしれない。毎週山に行けば、そこには励ましてくれる他者がいて、自己もいる。それらの肯定の言葉の繰り返しが、ふうたろうをやっと起きあがらせたのかも知れない。


 最初はゼロに近かった。それが、何となく一人で山に行き始めた。次第に百名山という目標ができた。それに向かって、登り続ける自分がいた。どんな状態であろうと、登った事実は変わらない。そしてその事実は、自分の肯定に繋がる。同時に、それゆえに繋がり認めてくれる他者も現れる。
 2011年、今となっては訳もなく孤独感に苛まれることはない。安心して、山に突撃できるのである。逆に、何があっても、ふうたろうには山がある、と思えるのである。
 自己肯定とは、文字通り自分を肯定することである。しかし、ふうたろう、訳もなく自分を肯定することはできなかったと、今となっては思う。ふうたろうは、自分が山に登ることで、自信をつけたのだと思う。それがすなわち自己肯定だと。
 「自己肯定感」は、ありのままの自分を肯定できる感情だと定義される。でも、それは本当かな、と思う。「ありのままの自分」は、必ず何かできることがあるから、肯定できるはずなのである。要は、それに気が付いているかどうか、それに価値があることを理解しているかどうか、の問題なのだろうと思うのだ。
 ふうたろうの場合、肯定の内容は山に関わることが多いのだが、それはどんなことだっていいはず。音楽でも、道徳があるならば商売でも、いや、気遣いができる心とか、笑顔がすてきであることとか、もはや、いいと思うことなら何でもいい。それが、他者をも肯定できることであるなら、何でもいいのだ。


天気:晴れ(東京都板橋区)

  1. GJ
    10月 7th, 2011 at 20:41 | #1

    ふうたろうさん、こんにちは。

    『何があっても、ふうたろうには山がある』
    という言葉に、ふうたろう絵日記がますます好きになりました。

    私も、山の中にいる自分が一番好きです。
    ふうたろうさんのような風のような大冒険はできないし、
    百名山を目指しているわけでもないけれど、
    きっと誰かと比べる必要なんてない。

    大きな山の中にただ身を置いて、
    美しいこと、素晴らしいこと、嬉しいこと、辛いこと、悲しいこと、寂しいこと、
    全てのことに大きくこころを動かして、
    素直に喜んだり泣いたりできる自分がいる ということを感じて、

    ただそれだけのことが、私にとって大きな価値があるのです。

  2. ふうたろう
    10月 11th, 2011 at 07:27 | #2

     おはようございます。

     これも、裏返せばある意味、「山がなければどうにもならん」とも言えます。頼るもの、すがるものなしに、人間ってものは生きられないのでしょうね。ただ、自分の中で作り出せるものではないものに頼ると(例えば、他人の優しさとか)、とても生きづらいものです。ふうたろう、もうそういう時代には戻りたくないな、と思います。
     ふうたろう、山の上でも山の下でも、いいと思えるときはいいのですが、仕事をしているときだけは、どうしても自分を好きになれません。仕事とはそういうものだとは思っていても、です。本当は、好きなことを探すために動けばいいのですが、その時間と体力を、今は作ることが出来ないでいます。

     そういえば、山でわき起こる雑念が少なくなりました。過去のことにイライラしたりとかする、あの雑念が。ふうたろうも、ほんの少し、成長したのでしょうね。

  3. いざなみちゃん
    10月 11th, 2011 at 19:34 | #3

    [どんな状態であろうと、登った事実は変わらない。そしてその事実は、自分の肯定に繋がる]

    深いですね~。変化の過程をこうして知ることができてありがとうです。
    ふうたろうさん、幸せ者ですね、だって、山があるんだもん
    体使って血流よくして・・・体力つくりできて・・それに自然災害による危機管理についても自然に身についていきますよね。それって財産。
    病んでいる人は、行動も起こせない。

    やっぱり体使うっていいんだな~って改めて思いました。

    ありがとう

    雑念もなくなってきていていいですね!

  4. ふうたろう
    10月 11th, 2011 at 22:06 | #4

     初めまして(こちらでは)。

     幸せ者、ですか…。時々、その幸せって何なのかと思うのです。今は確かに、山に登れて、以前よりも多くの人に囲まれて、いや囲まれていることを「認識」して、幸せなんだとは思うのですが、足りないのです。本当は、下界でも3年と言いたいものです。

     ふうたろうは…難病持ちです。病院通いです。元気とか言われると、何となく違和感がありますが…、もっとも、多少病気でも、それが許容できるから山に行くんですけどね。
     山登りの途中でも湧いてくる雑念はほんと減りました。否定感として出てこなくなりました。それだけでも、だいぶ楽です。

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