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コオロギに負ける頭脳

2007年 10月 21日

※アップロード10月22日

 新しいゲーム(でもないけど)にハマりだすと、殆ど依存的にそのゲームを続けるのが、僕の脳の性質のようです。たぶん、そういう人は多いのでしょうけども。
 一応、ごはんは食べているし、買い物やそれなりの仕事などはやっているけど、遠出したり、労力を使ったりするのが、億劫になります。今日は、本当は行こうと思っていたイベントがあったけど、やめました。
 代わりに、段ボール箱の処分、日記の更新(昨日付)、徒労に終わったストーブ用の灯油スタンド探し、食料の買い出しなどをしておきました。本当なら、今日みたいな日は山にでも行けるといいんですけど。


 実は、今日は3回くらい外出しています。これも、1階に住んでいることのメリットです。所沢市内を、ちょっと探検したいと思えば、出来てしまいます。かつての井野団地で5階の度重なる往復はだいぶ辛かったから…。
 所沢駅の西側は、プロペ通りといって、歌舞伎町みたいな繁華街があります。その一方で、開発の進んでいない(良い意味で)ところもあります。右の写真は、実は駅のすぐ側。
 所沢市は、駅東側は本当にスーパーもほとんど無いくらい閑散としています。まだ地元の店が残っているような雰囲気もあります。路地から子どもが飛び出してきます。老人が足を引きながら歩いています。
 という、やや落ち着いてきた、2回目の週末所沢市。


 一方、家では、殆どゲームをやっていました。単純なゲームはけっこう飽きるまで時間がかかります。他の数パーセントは、飯を食いながら両神山の地図を眺めたり、夕方アマゾンから届いた本(『分子予防環境医学』(本の泉社)・『チョコレートの真実』(英治出版))をめくってみたり。
 今日の題名がここでやっと出てくる。読んでいた新聞の中にあった、小さな本の紹介記事。

昆虫がヒトを救う―しんぶん赤旗2007年10月21日付8面

 コオロギの脳にもヒトと同じドーパミンなどの神経ホルモンがあり、性行動などを制御しています。卵の時から隔離し天涯孤独に育てられたオスのコオロギはメスにたいしても凶暴な性質が表れ、集団生活のコオロギに比べて神経ホルモンの量が少ないことがわかりました。しかも凶暴さは生育環境の「触れ合いの度合い」によって差が生まれるといいます。―以後略―

 コオロギを、ヒトに対して単純に外挿(がいそう)できるかどうかは判らないけど、この示唆はすごく本質的なことを突いているように思えます。
 昨日まで読んでいた『シーラという子』でも著者は、愛され受け入れられることを知らないシーラを通して、父親や叔父もが同じ状況で苦しんだことを想像しています。『男はプライドの生きものだから』(テレンス・リアル)も、相違ない意見だった。この「愛されない」というものが連鎖されるのです。
 僕は、シーラみたいです。恐怖と不安と憎しみに目をぎらつかせることが多い。悪い奴は死んでしまえば(あるいは殺してしまえば)いいとさえ思うこともしばしば。もちろん、実際はやらないけど。
 僕はどこでその感情―神経ホルモンの産物?―を獲得してきたのでしょう。隔離され天涯孤独に育てられたコオロギのように、ひょっとしたら器質的に、非可逆的なものなのでしょうか。
 そして、その天涯孤独なコオロギは、短い一生で、ヒトには認知できないくらいの苦痛や不便さを背負っているのでしょうか。あるいは、短すぎて、肉体的なダメージさえ負う余裕はないかも知れない。でも、それが、コオロギの60倍以上長く生きるヒトであった場合には…。

 …もっとも、この本『昆虫がヒトを救う』は、昆虫を資源として見る総論的な話の中の一つのようなので、神経学や心理学を考察する上で適切かどうかは別ですね。
 コオロギの幸せホルモンに負けるのは、それでも情けない…ね。

天気:快晴(埼玉県所沢市・東京都東村山市)

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