パンのための労働者
2010年 2月 17日
今夜は、A夫妻宅で、A夫妻、いとこのMと会食をしました。A夫妻は実際の血のつながりはないが、なぜかふうたろうはよくお世話になっていて、可愛がってもらっています。小学生の頃から、そうです。Mについては、嗚呼、その昔、よく泣かしたものですなあ。心幼きあの日々…。
しかし、もうあれから20年以上も経ち、みんなその分年をとり、Mもふうたろうも労働者になりました。自分のことはよく解らないけども、子どもだった頃から見ていたMと、今こうして、友人とやるように語り合っていると、不思議な照れくささを感じます。
Mはとある洋服店で働いていて、夢を持った労働者になっています(希望に満ちている、という意味ではない)。ふうたろう、避けられないとは思っていたけど、やはり今のふうたろう自身の労働と向き合わざるを得ず、ジェラシーを感じると同時に挫折感を覚えるのでした。パンを食うためだけに働いている状態が今のふうたろうだから。
そういう話を、Mと朝4時までしていて、つくづくふうたろうは今の労働があっていないのだなあ、と思ったのでした。まあ、山登りが生き甲斐、なんだもんなあ。今更働くことに生き甲斐を再転換なんて、むりだ。
しかし、今の仕事をしていなければ、できなかった生活だって多い。仕事が日常生活に還元されているものは、会話から食行動まで、思いの外多い。そう考えると、パンのために生きているとはいえ、捨てたもんじゃないんですよ、きっと。問題は、もう少し労働時間くらい忙しくできてもいいのに、ということですか。
天気:くもり時々雪(東京都板橋区・目黒区・埼玉県所沢市)