被爆者の辿った道~ナガサキ(2009年8月8日 長崎市)
※これは、ナガサキの原水爆禁止2009世界大会における分科会の記録です
被爆地・ナガサキは洗濯板のように凹凸の多い都市です。64年前の明日にこの都市で起こったことを、被爆者の陸門さんにご紹介して頂きます。
これは、アメリカ軍が長崎に投下した、原爆「ファットマン」の爆心地標です。当時の爆心地付近を見ていると、ここには三角形の敷地があったようです。公園だったのでしょうか、それとも何か他の施設?
この爆心地公園の片隅に、煉瓦の柱のようなものがあります。これはなんだろう?てっぺんにあるものは?
夥しい数の折り鶴。それでも、この数程度では核兵器廃絶への道は遠いようです。
どうやら、柱ではなく、何かのパーツのようです。
そう、これがナガサキの被爆地の象徴、浦上天主堂の瓦礫です。しかし、ここは浦上天主堂のあった場所ではありません。
爆心地公園には、被爆当時の地層を見せる場所があります。公園の地面から数メートル下、公園内を流れる河のほとりに、ガラスケースに守られるように展示されています。
茶碗の欠片、煉瓦、河原の破片、缶詰の空き缶、中にはやっとこなども。
数メートル上の、平(なら)された公園のグラウンドからは考えられないような、赤黒くやけた土の地層。ここには間違いなく、被爆者たちの叫びが埋め込まれています。
画像をクリックしてください。看板の文を読むことができます。爆心地公園の当時のことが書かれています。
5感を使って「継承・発展」を実践する、「歩く分科会」は、非常に多くの人の人気をかっさらっています。百聞は一見にしかずということです。
案内役の中心をになってくれる、陸門さんです。まるで山屋のような格好ですが、そう、山屋です。勤労者山岳連盟にもいらっしゃるそうです。
なぜ山屋が平和運動なのか?
これは長崎の被爆当時の地図らしいですが、よく見ると、上の方に右から読みで「長崎要塞地図」と書かれています。
冒頭にも述べたとおり、洗濯板のように凹凸の多い長崎市、今でこそ山屋にとって願ったり叶ったりの場所であっても、戦時中はその地形を要塞として使われていたのです。「平和でないと山登りなんてできないのです。」という意味も、解るものですね。
ここで、家族の被爆体験を話してくださいました。
陸門さんは直接被爆したのではなく、お母さんの胎内で被爆したそうです。
お父さんはたまたま郵便局の非番で山の上にカボチャを買いに行っていました。その時に原爆が炸裂し、吹っ飛ばされ、溝に落とされ、耳が聞こえなくなりました。
お姉さんは、鉄の机の上で仕事をしていました。その時、落ちた鉛筆をたまたま拾った瞬間、爆発し、助かりました。
爆発時はこうして助かったわけですが、助かったのはとても奇跡的だったのかもしれません。お姉さんの同僚の女の子の話。
「私、顔どうかしちょらん?」
と、瓦礫の中から這い上がってきた同僚の女の子。顔の半分がなくなっていました。どう言ったらいいか解らない。
「どうもしちょらんよ…」
と、お姉さん。
「そうね…(そうかい)」
女の子はそのまま倒れてしまいました。
そして、生き残ったお姉さんやお母さんも無事ではありませんでした。ひとつ上のお姉さん、一番上のお姉さん(4年前)、お母さんは、みんな白血病で亡くなったそうです。
話が前後しますが、この本には、爆心地の遺跡としての浦上天主堂を取り壊すことになった経緯が述べられているそうです。当時の長崎市長たちが、アメリカなどに買収・追随してきたのかが書かれているそうです。詳しくはこの本を読むのがいいのですが、かなり貴重な本のようです。
「ふりそでの少女」というそうです。火葬時にあまりにも哀れな姿だったので、きれいな晴れ着を着せて天に昇らせてやった、というものらしい。
その長崎大学医学部の横に、小さなほこらがあります。なぜか、そのほこらの片隅に、瓦礫が箱にしまわれています。あまり詳しい話はされませんでしたが…?
鎮懐石…?
話の内容はどうも直接原爆とは関係がないようです。
長崎大学医学部の校門には「サルコイドーシスの何とか」という学会の掲示があり、ふつうの大学運営ですが、キャンパス内には原爆にまつわるものが意外と目立つように配置されています。
しかし、ここに示されているのは爆発の瞬間になくなった人です。「後遺症で亡くなったのはこの数の何倍ということ」にもなるのです。
長崎にはABCC(広島にある放射線影響研究所の前身)というアメリカの放射線研究所がありました。陸門さんの小学校のクラスは―陸門さんは昭和21年生まれ―被爆の遺伝子への影響を調べられました。最初は外車で迎えに来てもらい、チョコレートをたくさん食べられるというので喜んでいました。
ところが、6年生くらいの男の子は行きたがりません。なぜかと聞いたところ、ペニスの大きさの調べられるのだそうです。男も女も、素っ裸にされて、治療をするわけでもありませんでした。大人になって男の子が性行為をできるのかどうかをアメリカは調べていたのです。
日本政府もそういうことを後押ししていました。そういいながら、「お金がもらえていいじゃないか」「特別に(原爆症に?)認めてやる」などと言ってきたそうです。
この石材は元・長崎医科大学の門の一部です。柵で囲いがされていますが…?
反対側は5cm程度ずれています。秒速400mの爆風を食らったのですから、無理もないでしょうか。
被爆当時からあったような石畳です。
陸門さんがここで思い出したように言いました。
「地面に丸い焼け跡みたいなのが点々と続いていました。何かなと思ったら、たんぽぽの影なんですね。」
たんぽぽでさえ影になるほど瞬間的な高熱の熱線だったのですね。
でも、8月上旬にたんぽぽはさすがに季節はずれです。何か違う花ではないでしょうか。
当時、市街地は火の海で、この坂を上がって、山を越えて人は逃げてきたそうです。しかし…
しかし原爆に神も仏もない。昭和20年8月9日が命日の人がどれだけ多いことか。
この長閑な景色が原爆の炎に覆われていたというのが、まったく想像できません。空の色は?土の固さは?空気のにおいは…?音は?
ここは、死因まで入っています。爆死の他、戦死という人もいます。ふうたろうたちと同じ世代28歳。
この墓石の人はほぼすべて爆死。ほとんど一家全滅です。17歳以下の子どもは原爆で瞬殺。
実はこの穴弘法寺コースは初めての企画だったそうです。どんなイベントがあるのでしょうか。
夏の暑い中、被爆者が逃げてきたルートを同じように歩いてきました。暑さはあまり変わらないかもしれないけど、全身火傷の人が這いながら上がってくる辛さは想像を絶します。
穴弘法寺のお堂に招かれました。二本足で歩いてきたみんなには、お寺の住職から水出しのお茶を振る舞われました。
穴弘法寺では必ずお茶で接待するようにしているそうです。このお茶を出すことには、実は意味があるのです。
先代の住職お話です。
いつものようにお参りに行きました。行き先ではお茶を振る舞われました。日頃はお茶を出されても断ってくるそうですが、たまたまこの日はいただいて雑談をしたのです。すると、電車が2本遅れ、被爆を免れました。
それ以降、このお寺ではお茶の功徳(くどく)として、災難逃れのためにお茶を接待しています。
現住職は38歳です。被爆体験も戦争の体験もありません。しかし、先代の住職や檀家から聞いてきたことを伝えるべく、話してくれます。
話の中身は20分くらいありますので、テープの中身が必要な方はメールで一報ください。
一部を紹介します。
8月9日はお椀に氷水を入れ、お寺の仏すべてに供えます。住職の「忘れないでくださいね」という思いと共に受け継がれているそうです。
人々が「水がほしい…水がほしい…」と言ってこの階段を登ってきました。水を差し出すと、飲んで、そのまま亡くなりました。中には、登ってきた瞬間、「嗚呼、着いた…」という安堵感とともにこときれる人もいました。先代はそういう人々を20人ほど荼毘に付しました。今もお骨は安置しています。
お寺の周りは人の死体がずっとあったそうです。その死体はみんな山側に頭を向けていました。この辺りは水が豊富で、「空襲警報が鳴ったら穴弘法に行け」というのが合い言葉だったそうです。
私たち生き残った人が何をすればいいか。38歳の住職はこう語りました。
僧侶としては、末永く供養していくことが使命です。語るのが上手な人は語る。絵が上手な人は絵に描いて残す。子どもと触れ合う人が多い人は子どもに伝える。
私たちも戦争のことも原爆のこともまったく解らない世代ですが、年を召した方から伝えてもらうことで記憶には残ります。みんなとともに原爆のことを語り継いでいきたいと思います。
しかし、知っている方(原爆体験者)がいなくなっていきます。その時にお年を召した方が少しでも残してもらいたい。若い人たちに自信を持って語ってほしい。若い人、子どもが判ろうが判るまいが、実感があろうがあるまいが、次の世代に語り継ぐこと自体がよいことだと思います。
今日は縁があって、私のような者がこのようなことを語らせて頂くのは失礼だとは思うのですが、それでも、この寺で起こったことを語れるのはよいことだと、私自身が思います。もし、そういう(伝える)機会があったら語り継いでほしい。若い人はそういうお年寄りの話を何度も聞いてほしい。
…継承と発展を考えさせるではありませんか。
終わりに、住職から無病息災(?)の施しを受けました。この時緑内障を疑われていたので、これで緑内障が消えれば…などと思っていましたが、杞憂でしたね。
この意味を、住職に教えて頂いたのですが、忘れてしまいました。
南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)で調べてみると出てくると思いますので、あえてここでは追記しません。
ところどころに胸から上が吹っ飛ばされた仏像があります。爆風の威力は斜面の反対側にまで及んだのでしょうか。
お寺の上にある、穴弘法の“穴”に向かいます。道沿いには所狭しと、被爆地蔵がいます。
途中、その爆風で動いたという岩があるのです。山の斜面にあるのですが、同じ斜面から見ています。なるほど、…よく判りません。
山での岩場などを見慣れていると、このくらいのずれはずれのうちに入らないのでなかなか爆風の強さに対する実感として入ってきません。
驚くほど緑がきれいなこの地ですが、戦中、木は全くなかったそうです。薪や軍需品に使われたのでしょうか。
これを見れば、先の爆風で動いたという岩の意味が解ります。
原爆の爆風は400m/s。台風でも大型のもので最大瞬間風速60m/sといい、人は10m/s前後でまともに立って歩くことさえできません。それが400m/sですから、この岩のずれも相当なものです。
穴弘法奥之院霊仙寺の解説です。被爆したお寺として重要なことは、歩いていて、住職の話を聞いて、よく判りました。
クリックすると本文を読むことができます。
実はここが元の入口。爆心地公園にあった天主堂の一部は恐らくここにあったものを移動させたのだろうと思います。遺跡を移動してどれだけの価値があるのか。ここにも、原爆というものの恐ろしさを過小評価・歪曲・隠蔽しようとしている勢力の影が見えます。
これは、浦上天主堂が被爆して、落ちてきた鐘楼です。しかし、この鐘楼は埋められてしまい、後になって掘り出したものだそうです。
住職もおっしゃっていたように、被爆体験者が亡くなっている中では、直接見聞きできるものは本当に貴重なのです。にもかかわらず、こういうものをなくそうとする動きは許し難いものですね。
鐘楼を反対側から見ました。背後にはふつうの街が広がっています。原爆は都市の中心に落とされたのです。
この石垣は、瓦礫を砕いて作られたものだとか。なぜ、あえてそういうことをしなければならないのか。
すべてのコースが終わって昼食という段階になりました。
しかし、そこで目に入ったのがこの看板。「観光 土産品 被爆者の店」?
被爆者の店とは何だろう。
原爆資料館前で、解散間際の集合写真。だいぶ大勢で動きましたね。みなさん、お疲れさまでした。
そして、ここで迷子になりました。
天気:くもり時々晴れ、朝のうち一時雨(埼玉県所沢市・東京都板橋区・豊島区、天気は2010年8月10日のものです)