Home > 雑談 > 「~しかできない」と「~でもできる」の違い

「~しかできない」と「~でもできる」の違い

2010年 11月 2日

 ドラクエに夢中になると、どうもイカンね。もっとも、胃もたれが若干続いていて(夜のカレーが多かった)寝つきづらかったのだけども。
 今日は普通に仕事。まあ、昨日も普通に仕事だったけども。
 ただ、今朝、池袋駅で、大規模な人身事故があったらしく、東武東上線がノックアウト。乗り慣れない国際興業バスに乗っていくことにした。それでも、こないだ、まだ6時台の空が明るい頃に上りのバスに乗っていたのでスムーズに乗れたのかもしれない。もちろん、同じことを考える乗客で混雑はしていたが。


 ところで、『登山は真剣勝負』を読んでいると、ふうたろうの単独行は、自由に見えて不自由なのだなと、思った。単独で「しか」行けないのと、単独「でも」行けるのとは、似て非なるものだ。仲間と一緒に行く煩わしさ、山岳会に入るなど論外中の論外、というのがふうたろうの正直な思いなのだ。
 この本にも書いてあったけど、「同じ目的で集まって」何かの行動をするというのが、山に登るという面で、山岳会という組織なのだ。
 でも、小さい頃から「組織」(学校なども含めて)に居て、ろくな思いをしなかったせいなのか(迫害しか受けなかったさえ思う、迫害と弾圧の機関だとさえ思う)、組織というものはほぼ例外なく嫌いである。だから、仕事も結局は好きになりきれないのだと思うけども。
 そういえば、ふうたろうが最近特に結婚願望を喪失しているのも、束縛され、あるいは束縛することを恐れているのかなと思うのだ。
 山というものはそういう人間的に未成熟な部分を洗いざらい教えてくれるものなんだと思う。
 きっと、岩登りやヒマラヤ級の山登り、あるいは北アルプスの雪山登山などをしようと思えば、山岳会などに属していかないと駄目だろうなと、うすうす感じてはいる。でも、今のところロープを張ってどうのこうの、という山登りがしたいとはまったくといっていいほど思わない。ヒマラヤも宇宙旅行並みに現実味がないし、さしあたって手が届く可能性があるのは、冬山北アルプスなどだろうか。
 …変に技術力が付きすぎて、何でも一人でできてしまうのだとしたら、それはある意味不完全なヒトを作り出すことなのかもしれないな。知力・体力を兼ね備えたただの独りよがり、さしずめマッドサイエンティスト、か。そんなものはキケン以外の何ものでもない。
 …ふうたろうは、ふうたろうが最も忌み嫌う人間像に成り下がろうとしている。


天気:晴れ時々くもり(埼玉県所沢市・東京都板橋区・豊島区)

Comments are closed.