科学の種類
身体の具合が悪くなると、裏腹に高まってくるものがある。意外にもそれは、学習意欲、だったりもする。
長らく放置していたハードカバーの『胎児の危機』(藤原書店)をボチボチ読んでいる。最初の方は、毒性学を考えるときの科学の使い方が書かれていて、これが哲学ではなく毒性学の本であることを少しばかり忘れそうだ。…が、真理をとことんまで追究する意味での科学と、物事の価値判断のための道具としての科学と、ふたつの意味があるというのは、それが言葉にならずにモヤモヤとしていたふうたろうにとっては、実に目から鱗だった。
真理を追究するためだけならば、本当に真理に近いものを究極まで突き詰めて、ひたむきにゆっくりででも進めばいいが、食品添加物などの無害性を証明するための科学では同じことはできない。使うためには「真理(絶対的真理)が解るまで使わない」では使える日がこないからだ。逆に言えば、毒性が確実に見つかるとは限らないので、使うことに対しても実に慎重になるべきなのだ。科学が疑問に対する答を与えてくれるものではなく、「今のところ妥当な判断の材料」を与えてくれるに過ぎないことを、もっと知るべきだと思った。
ふうたろうは、ポリフェノールの有用性を謳うことには科学的には慎重であるべきだと思うが、ダイオキシンの有害性を科学的であるが故に謳わないことにも非常に慎重であるべきだと思う。この判断そのものは科学ではない。科学で得られた知見を元にした、価値観及び政治的判断である。
…とまあ、ネタ切れしてきたことを棚に上げて色々書いてしまったが、学習意欲の話に戻れば、その高まりは、人と交流する時間がここ半年弱で少し増えたせいなのかもしれない。身体の具合も、実は人との交流の増加に反比例しているのかもしれない。こう言うとき、身体の具合は学習意欲と人と交流する時間との関係に対する交絡因子という。
今日の身体の具合は若干マシだった。まあ、そういうときが最も学習意欲の高まるときなんだな。
天気:晴れ(東京都板橋区・埼玉県所沢市)