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山は頂だけでは存在できぬ

2011年 9月 29日

 今日はHKに、ジゴクアルプス土産を持っていきました。これは、ふうたろうも初めて買う、たぬき饅頭で、愛媛県東予市(現在は西条市に合併されているが)の土産です。


 中は包装が何重にも為されていて、若干鬱陶し目ではあるけど、土産(贈答)だから、しょうがない。


 ところで、このたぬき饅頭で思い出したけど、もう一つあそこの話で、旅日記の方に書き忘れていたことがあったんだ。そんなに長いことでもないし、大したことも書けないけど。
 東予市は、ふうたろうが小学生の頃、あの時はまだ元気だった叔父(厳密には"叔父"ではないが)が、娘家族が波方町(今は今治市に合併)にいるからと同町内の海っぺたのぼろアパートに住んでいました。ふうたろうはあの波方町が、海も山もきれいなところであることを知っていたので、高校生になるまでずっと叔父の家まで行ったものでした。その家に行くとき、大阪から出ているオレンジフェリー(そう、あのスクーターのおっちゃんが乗ってきたやつ)に乗って、東予港で下りて、行ったことがあります。
 波方町は海沿いの静かな町で、山も海もきれいでした。ふうたろうはその当時、春がいちばん好きで、新興住宅地の裏側にある山に行くとワラビが大量に採れるので、目をつむったらワラビの残像現象が起こるほど採ったものです。
 でも、その波方町も、最後に行ったのは1999年。まだ20世紀の頃。しまなみ海道とかいう大きな橋もできて、きっと当時よりあの町も雰囲気が変わったんだろうなと、想像しかできませんが、思いを馳せるのです。
 そうそう、東予市の話でした。
 東予市は、カブトガニも有名だそうです。ふうたろうは、海で生きている(死んでいたっけ?)カブトガニを見たのは、たぶん小学生か幼稚園児の頃だったと思います。それは東予市ではなく、大分県の遠浅の干潟で、潮干狩りなどしていた頃だったかと。
 カブトガニの話を、東京行きの夜行バスが来るバス停で待っているときに、隣に居合わせた地元のおばちゃんたちとしていたので、そういうことを思い出したのですが、近頃は海にカブトガニはいなくなったんだそうです。ふうたろうも、確かにカブトガニを海で見なくなったな、とどこかで思っていました。それが、気候変動によるものなのか、環境汚染によるものなのかは判らないけども。
 そのカブトガニに因んで、東予にはカブトガニ餅なる名産品があったそうです。おばちゃんは、そのお餅が美味しかったと言っています。しかし、それを作っていた主人が亡くなって、その名産品は失われてしまったらしい。ふうたろうが、いくらそれを望んでも、もう絶対に手に入ることがないものになってしまったのです。
 恐らく、こういう流れで失われていく名産品は、全国ではあちらこちらであるんではないでしょうかね。どうして、技術の継承ができなかったんだろう。ふうたろうに、個々の事情を知る術はないけど、あの黒くすすけた建物が並んでいた駅前の通りを見ると、悲しみを通り越して、怒りに変わります。
 ふうたろうの山旅は、そういうのもあって、純粋には山ではないんですよね。山登りだけを楽しむなら、登山道しか見えないし、大雑把な山頂からの町並みの風景くらいしか見えない。でも、その山に登るための登山道や、下界での補給(商業)を支えているのは、登山基地となる、まさにその「大雑把」に見えている都市や村々です。それを抜かして、山のすべては語れないのかなとも思います。
 何ができるか判らないけど、石巻で津波の被害を見たとき、原水爆禁止世界大会でヒロシマやナガサキの遺跡巡りをしたときと同じように、見たものをちゃんと記録しておくしかない。もちろん、山登りの時は、山がメインであることを忘れれば、本末転倒だけどね。
 山は山頂だけで存在できない。海の底から地盤が積み重なっていることを忘れてはいけない。


天気:晴れ(東京都板橋区)

  1. wine
    9月 30th, 2011 at 10:36 | #1

    ふうたろうさんのそういう考え方に共感します。
    そしてそういう考えに基づいた山登り・・・奥が深いですね。
    ワラビの話を読んでいて胸にジンときました。私もそんな懐かしい自然への思い出が一杯あるのに、今が忙しくて忘れて暮らしていました。
    3.11以降 日本人(私自身)も「当たり前」にあった「自然」や「人・物」の大切さにやっと気づきはじめたのかもしれません。

  2. ふうたろう
    9月 30th, 2011 at 14:27 | #2

     うれしいですね。ありがとうございます。
     これにもう少し、事実を快刀乱麻に示せるようなデータを付け加えながら書けるといいなあと、いつも思います。
     あの自然を、ワラビ取りに明け暮れた、埋め立て地っ子の思い出が、ただの思い出にならないようにしたいものですね。
     3月11日以前も以降も、ほんとはその存在意義はまったく変わっていないのですが、あれを機会に、考え直す人は、ひょっとしたら増えているのかもしれませんね。いや、そうであってほしい。

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