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何のために働くの?

2011年 10月 19日

 平日のふうたろうって、とことんだらけていますね。でも、いつも気張ってるとしんどいですね。
 とりあえず、浅間隠山の写真をアップロードします。

アルバムの場所: 秋山さわやかセット


 労働って何のためにするの?
 なんか、いつも同じ事を書いているような気がするけど、しばしば、労働は自己実現だとかやりがいの場だと思われがちだけど、ふうたろうは必ずしもそうではないと思うんだ。自分がどんな仕事に就きたいか判らなくても、労働して収入を得なければ、何人たりとも生きていけない。だからなのかは判らないけど、憲法27条で勤労は義務という条項があるのだと思う。それ以外で収入を得て生きているというのは、むしろ例外的であり、憲法に則せば違反ということになるだろうか。
 …でも、憲法の話は今はいい。労働(勤労)に無理やり自己実現を求めるのは乱暴なんだよ。誰もが好きな労働をやれるわけじゃない。誰もがその労働を好きでいられ続けるわけでもない。そして、今の社会では、誰もが好きな職業に転職できる情勢でもない。だから、やりがいや向上心を持てない人を責めるのは止せ。淡々と、与えられた仕事をこなす人間がいなければ、実際の現場は回らない。クリエイティブな仕事だけでは人間社会は維持できない。
 仕事で自己実現を目指さない人は、ひょっとしたら余暇で自己実現を目指すかもしれない。最低限の給与を得て、生活を支え、趣味や文化活動に勤しむことを大事にする人だっている。音楽で世の中の若者全員が食っていけるはずはないので、音楽を余暇で楽しむ人が必要なのである。山を仕事にする人ばかりだと山ガイドは仕事を失う。だから、山登りを余暇にする人が必要なのである。
 ふうたろうは仕事は最低限の生活費と山に行くための金を得られればそれでいい。逆に、それが保証できない労働条件は、あってはいけない。そのための労働基準法なのだろうと、思う。最低賃金法なのだと、思う。社会福祉や医療なのだとも、思う。
 ただし、仕事のクオリティは保たなければならない。最低限というのは、テキトウにやっていいということではない。人が「消費」するに足る品質を保たなければ、それは「商品」ではない。即ち、働いていないことと同じなのである。交換価値のない生産物は、商品にはならない。これだけは、肝に銘じておこう。だから、ふうたろう、仕事はいいかげんにはやっていない(つもり)。正確には、自分がいいかげんにならなくて済むようにスケジュールを組む。
 ところで、常に向上心があって前向きな人間だけを集めようとしている企業もあるだろう。そうでない、ルーチン的な仕事をする人は、パートやアルバイト、非正規雇用に置き換えて、それだけでは生活できないような低賃金で働かせるのが今の社会だ。それはよく考えてみたら、猛烈に異常な社会じゃないのか?
 人間は、誰でも最低限、衣食住が必要だが、それだけで生きられる人もそうはいない。マンガ読んだり、髪切ったり、おしゃれしたり、鉄道写真撮りに行ったり、海外旅行したりするものなんだよ。我が子やパートナーと一緒に過ごすことも必要不可欠だ。そして、どんな企業でも、そういう人たちの消費があるから経営が維持され、社会の安寧が保たれるのだ。
 勘違いしてはならない。「このくらいの仕事だからパートで充分」なのではない。どんな仕事であっても、その企業体にとっては必要不可欠な部門であり、生活を保障しなければ社会が崩壊するのである。一部の企業や、場合によっては労働者が、抜け駆けして不当な賃下げを呑んだり、違法な働かせ方をしたりすることは、そういう意味で厳罰ものだとさえ言える。
 ますます、今週末23日の全国青年大集会の意義は深まるだろう。
 →なんで日本共産党のページの中にあるんだろ…(汗
 →全国青年大集会ブログ(むしろこちら本家が見づらい(滅))


天気:くもり(東京都板橋区)

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