仕事のやりがい
今朝、あのたまごを開封して食べました。作ることの大変さは本人たちがいちばん判るはずなのに、贈り物としてくれたことに、感謝です。しかもこの卵、とても大粒(?)です。
農家たちは、食べ物を作るのが仕事です。そして、それはいかなる人間もが必要とする労働で、この世でいちばんやりがいのある仕事、なのかも知れません。ふうたろうの「仕事のやりがい」とは、誰かが必要とし、感謝し、喜び、役に立ててくれる物を作る、相互の喜びを感じること、だと思います。もし、それが感じられるものであれば、その人にとっては、たとえ農業でなくてもやりがいのある仕事、なのでしょうね。
一方ふうたろうは、昨日あんなことがあったばかりなのもあり、はっきり言って、仕事に行く気さえしないのは言うまでもない。でも、だからといって、行かなければ収入が減る(べきである)ので、行ったさ。それに、今日はちゃんとやるべき仕事もあるから、ふうたろう一人分の責任は果たしますよ、と。フルで8検なので、けっこう時間かかりましたが、タイムリミット3分前に何とか終わらせました。
ところで、一昨日11日、日記で書き忘れていた事を書こうと思います。ふうたろうの職場によく来てくれる、営業の方との会話です。とても真面目な方で、腹を割りながら話をしてくれるし、大人の話をしてくれるので、ふうたろうは好きです。あまりうちの職場にはいないタイプ、ですな…
ちょっと、政治と仕事に対する姿勢の話になりました。おもしろい繋がりですね。
政治は、言わずもがな、かなり腹立たしい現状となっている事は、もう具体的にせずとも自明ですが、彼曰く、「自分一人の力ではどうにもならないから、半ば諦めている」のようなことをおっしゃるのです。その上で、この職場のスタッフ、とりわけ所長の事だとふうたろうは勝手に思っているが、変える方向に動いているのが、とても励みになる、とおっしゃるのですね。
ふうたろうは、かの営業の方が、「諦めている」なんていみじくも言っていますが、とんでもないと言いたい。例えは悪すぎるが、戦争で兵站活動と呼ばれるところは、かなり重要らしいじゃないですか。言わば、営業に来て、機械や器具などの、"活動の武器"となる物や情報を提供するのは、「諦めて」いない証拠だと思います。もちろん、それが仕事だから、というのはあるかも知れないけど、彼の話からすれば、「仕事だから」の次元はもう超えている。ふうたろうたちと対等に話をしてくれる事にもとても感謝しています。
でも、ひとつだけ違うぞ、と言うとすれば、ふうたろうは、この仕事にそこまでの情熱は持っていません。放射線の検査が、今ホットなもので、その検査に関われているのがいいというスタッフもいますが、ふうたろうは、そんな事はどうでも良いのです。その検査を使って、結局何をするか、誰のためになるのか、が、本当に判らなければ、意味がない。検査して、何に使うのか、実際、判らないんですよね。
ふうたろうがこの職場に来た頃、残留農薬の話で、企業や国の食の安全性に対する体たらくぶりを告発し、実際に国を動かした事に感動してやってきました。しかし、今はもうそれもない。食の安全はあって当たり前のものだという思いが定着してしまっているのか、農薬などの化学物質に関しては、ほぼ解決済みになってしまったのか、いろいろ複雑なところはあるけど、ふうたろうの初心は揺らいで傾いて、終いには倒れてしまっています。今はもはや、依頼される事をやっているだけ。もちろん、一時は大好きな化学や生物学の知的欲求も活かされると幻想を抱いたけど、それは本当に幻想に終わりました。
昨日の愚痴の「やる気」じゃないけど、そんなものは、持っているだけで気が狂います。「やりがい」なんて、ふうたろうがやりたい事と一致していなければ、持てるはずもない。だから、義務でやるだけです。ごめんね、期待、応えられません。
しかし、ふうたろうは、この放射能検査を、けっこう多くの人が大小機械を買ってやっているのを見るにつけ、それをしてどうするのだろうと思います。東電(および電力会社・「利益共同体」)や国に突きつける?でも、その程度では害がない、と、一蹴される。現に、各地方の電力企業は原発にしがみついてますからね。ほんとに、この検査をして、何がしたいのかな。だいたいの人が思う程度のように、食品に残留する放射性物質による内部被曝から逃れるためだけ、だったら、別にそこまで崇高な目標でもないと思います。ふうたろうからすれば、放射線の害を、定量的に表現しようとしている研究者一人分にも及んでいないとさえ。ふうたろうにとっては、"検査そのもの"は、世間体としてホットな話題であるだけで、本質ではないと思っています。もちろん、この検査結果を以て、何かに使いたいという人と共同作業するのであれば、それは話は違ってきますがね。
天気:晴れ、ていたと思う(東京都板橋区)