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山は流転する

2012年 6月 13日

 梅雨前線が南下したようです。今日は晴れ間が見えます。でも、気温が低く、寒い。これも多様な「梅雨」の表情かもしれませんね。
 空を見上げると、梅雨時期に長い雨が降った後の青空は底抜けに青いんです。でも、今日はまだ降り足りないのか、濁っていますね。これから、梅雨の合間に見える「五月晴れ」が一つの楽しみになりますね。


 ところで、今日はふうたろうの知り合いが「名山とは何か」みたいなことをつぶやいていました。ふうたろうもよく考えているようで考えていない話だったかもしれません。
 実は、ふうたろうの場合、日本百名山を著した深田久弥が何を考えていたとかは、本当に何一つ知りません。よもや、どんな道を辿り、どんな季節に歩いたのかなんて、考えたことすらもありません。
 今は100を終えて、200と300をまとめてスタンプラリー的にアタックしていますが、その姿勢は変わりませんし、これからも変えるつもりはありません。しかし、ふうたろうの300名山撃破は、山頂を踏むことだけが目的ではありません。
 山は山頂の下に肩から山麓まで、地学的に言ってしまえば岩石を積み上げています。それだけでも山が山頂だけでは存在しないと言い張るに充分ですが、山頂に至るには山頂まで歩かなければ至れません。その過程には草木が生い茂り、岩が露出し、水が流れ、日が差し、雲がぶつかり、動物たちが憩う。登山道を切り開く人が居、登山口までの道があり、その下には山に抱かれた人里がある。
 ふうたろうは駅やバス停の果てからその道を辿って山頂を目指す(もちろんぜんぶではないけど)。ふうたろうにとってみれば、草木の一本一本、岩の一個一個、水の一滴一滴、日の光の一差し、雲、虫、行き交う人、登山道の踏み跡、人々が付けた新旧さまざまな鉈目やリボン、町の人が生きる家や農地・工場や商店…。歩き出したその一歩から、ふうたろうの登山の中にそれらはいつも組み込まれてきました。季節によって変わるふうたろう自身の生理、挑んでいる相手に影響される喜怒哀楽の心境、それらさえも、登山の一部かもしれません。
 そういう特定しがたいものの複合体である登山の中にある「山」に「名」山というものを定義づけられるのか、実は非常に難しいのではないか。しばしば、「今まででいちばん良かった山はどこですか」と聞かれます。しかし、これこそ"悪魔の選択"なのかもしれません。確かに、西吾妻山(福島県)や開聞岳(鹿児島県)、光岳(静岡県)、平ヶ岳(新潟県)のように答えることはありますが、それは単に景色だけで選んだものです。しかも、「その瞬間のふうたろうの見た景色」です。しかし「その瞬間のふうたろう」は、さっき挙げた一つ一つの影響を受け、直前の「影響を受けた自分」の影響さえも受けます。さて、それで本当に、開聞岳や西吾妻山が「一番」だったと言えるでしょうか?その「一番」は本当に再現できるでしょうか?
 ところで、ふうたろうは、2度目に登る山は、たとえそれがどんなに「良かった山」だったとしても、初めて登る山にはほぼ間違いなく敵わないと思っています。初めて登る山には、2度目登る山には決してない、初々しさが存在します。0から作り上げられるその対象への認識は、何物にも代え難いのだと思います。繰り返し登ることで新たな認識の発展があることは確かです。登山を繰り返すことで、一回前の登山よりも知り得たことの増えてきたことを、ふうたろうは知っているからです。しかし、その初々しさというか、わくわく感というか、高揚感というか、そういうものは2度目に引き出されるものとは明らかに異質です。そして、ふうたろうはそういう感覚が好きです。
 誰かが与えた300もの「名山」。ふうたろうがその一つ一つの名前を聞いたとき、心に入ってきたのは、「こういう山があるんだよー!どうだい、来てみないか!」という特定できそうもない何かの声だけです。「~がきれい」「…からの展望が最高」というのは聞こえているだけで、実はそれほど重要な声だとは思っていません。ふうたろうにとって重要なものは、特定の花でも、特定の地点でもなく、"複合体"としての登山、単刀直入に言えば、ふうたろうがこれから歩くだろう軌跡そのものです。「二度と歩きたくない」と思っても、その感情さえ重要なのです。なぜなら、その影響を受けてこそ一つの「登山」がコクのあるものになるのですから。
 動物、または人であっても子どもは苦味や酸味のあるものをあまり好みません。しかし、大人になるとそれらを適度に嗜み、楽しむことができるようになるそうです。それと同じように、最初は長い車道歩きや悪天候などに戦き、避け、展望の良さや好天の時だけを狙うかもしれません。しかし、車道歩きを終えてバス停や駅に着いたときの不思議な達成感、丸一日降り続けた雨が上がって澄んだ空を見たときの底知れぬ感動は、苦味や酸味のように、実は欠かせない要素によってこそ生まれるのかもしれません。
 「本当の名山」は、実は、登る者の哲学にあるのかもしれません。ふうたろうのこの認識がどの程度正しいか、哲学がどの程度共感されるものなのかは解りませんが、ふうたろうが感じる山への弁証法は、現時点ではこのようなものだと思います。


天気:くもり時々晴れ(東京都板橋区)

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