人が食べるもの
今日は、久しぶりに昼、全員で食べに行きました。ふうたろうがまだ所沢にいる頃、食べに行くとなったら、あって当たり前であるかのように、むしゃむしゃとあまり何も考えずに食べていました。でも、ふうたろう、板橋区に引っ越してから外食は数えるほどしかしなくなりました。そして、食事を作ってもらう、ということがとても尊いものだとも思うようになりました。
一昨日、田沢湖駅前の食堂での隅で、16時半頃にふうたろうが入ったら、40代くらいのおばちゃんが新聞を読んで客を待っていた感じでしたが、すぐにご飯の準備をしてくれ、ふうたろうが携帯をいじっている間に玉子丼を出してくれました。
客と食堂の調理師との関係に過ぎないけど、ふうたろうは間違いなく、この人が手間をかけて作ってくれたものを食べて、生き延びたという気がするんです。妙にありがたい気分になったんですね。
それは、ミスタードーナツで、聞き慣れない東北の発音で新商品を紹介して出してくれたネーチャンも同じであり、そして、今日こうして近くのベトナム料理屋で作ってもらったチャーハンとフォーも同じです。食べ物を作る、出すというのはとても尊いこと。ミスドの場合は、若干違う意味合いもあるけどね。
ふうたろうは料理する頻度が増えたし、納豆などまで作るようになった。近くに行きつけのパン屋や鶏肉屋ができて、話し込むようにもなった。自分が料理をし、ものを作る人の顔を見る機会もできたのかも知れません。今の食を取り巻く諸々の不安や不信感は、こういうものの不足にあるのかも知れませんね。
あなたは誰が作ったものを食べていますか?どうやって作ったものか判りますか?なぜ食べているのかを知っていますか?
とかく身体の中に入れるもの、命の源としての食べ物だからことさらそういう意識を持ちがちだけど、人が作るものはみな、…労働で生まれるすべての生産物は、尊いのです。それを作る人と使う人との繋がりが保たれている間は。