…のつもりでも
3日ほど前、友人の掲示板に書き込みをしました。そして、今日、友人本人ではない、全く知らない第三者の新たな書き込みがありました。
じゅうぶん、あんたも…だと思います。
「…」の部分は、僕自身が別の人に向けていた言葉でした。いわれてみて、頭が真っ白になっていましたが、よく考えたら、彼(彼女?)の述べていることはたぶん正しい。たぶんというのは、どこを見ていっているかは正確にはわからないから。でも、自分で読み返してみて、相手を馬鹿にしているものだと思えました。
帰りの電車で、昨日から読み始めていた『風車の見える丘』を読んでいました。大学卒業のエリートが、恋人と別れ、それを引きずり、彼女を追いかけて、近くの土地で農業のバイトを始めます。しかし、同じ農場で働く農家の人にどこかとけ込めない彼は、彼女を追いかけてきた話でみんなにからかわれます。そんなとき、農家の中の一人から言われました。
「…自分は他の人たちとは違うっていう気持ちが新くんのなかにまだあるから、みんなにそれが伝わっちゃうんじゃないのかな。」
常日頃から人のことを「馬鹿だ」とか「救いようがない」とか言っている自分を想像します。それを今まで、「自分が絶対正しい」と思って言っていました。一方でそんな自分が嫌になりながらも、選挙の結果や、喫煙者のマナーの悪さなどを垣間見たときは、「こいつ(国民全員)死ね」だとかすら。
掲示板に書き込みをしたときも、今思い返せばそういう思いがどこかでありました。右翼思想を持つ人を、あるいは別の意見を持つ人を、何かこき下ろしてやろうという邪心が。今回の掲示板の件は、僕自身の未熟さの一部が現れたもので、実は、今一番ストレスとためている「人に対する敵意」とも軌を一にしているんじゃないか。
誰かが、「自分を相対的に見られるようになることが大事」のようなことを言っていましたが、そういうことなのかもしれません。どんなに道理の通らないことをいい、行動する人がいても、もちろんそれ自体を許すわけではないが、そういう人もいる、とおおらかに受け止めてもいいんじゃないか。仮にその人を「馬鹿だ」の「救いようがない」だの、精神的にでも傷つけたところで、何も変わらないことを、いい加減確信してもいい年です。一定流しながら、できるところは様子を見ることも必要なのかもしれません。
とにかく、僕はそれほど人と交わった経験がなく、一人の時間が多すぎます。時々人と話をして、「ああ、人って一人で生きてても、ほんっとに何も成長ないわ。」と思うことがあります。今回の掲示板の事件をきっかけに、ちょっと考えてみました。タイミングよく、『風車の見える丘』も読んでいて、なかなかためになります。「もっとみんなの中に入っていってみたら」、自分の立場などがよく見えるんでしょうか。
天気:曇り時々晴れ(東京23区西部)
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