空の色、恋の色
何気ない、なんの変哲もない朝が今日もやってきた。平日ってのはこんなもんだと思う。
でも、空の主張が時々大きくなるときがあって、そういうときはどんなときでもそちらに耳を、いや目を、傾けたくなる。今日はそんな朝だった。
ふうたろうの家の近くに駐車場があって、そこから見る空がいちばん広い。
大山金井町の交差点もいいかな。だいぶビルが多くなったんだろうけどね。
ちょっと昼飯の買い出しに出かけたら、レストランオオタニのクリスマスツリー設置作業が始まっていた。
そうだよね、もうそんな時期なんだよね。山ばかり登っているふうたろうには、山が紅葉したとか、冠雪したとか、そういう季節の変化はあっても、山に登ることはいつの季節も同じなので、カレンダーを見ないと季節が判らないというか。ふうたろうの頭にあるカレンダーが人用ではないというか。
夜には殆ど設置が終わって、電球が輝き始めていた。
そうか、今年もいよいよ、冬が来たんだなあ。
でも、季節の到来は、カレンダーの動きじゃなくて、自然の動きで感じたいと思う。東京では、木枯らしや初雪などの大規模な自然現象ではそれを感じることが出来ても、霜柱や野草などの居場所はない。それは即ち同時に、人の住むところとは言えないんじゃないかなと、思ったりもする。
夜はHKで色々くっちゃべっていたんだけど、いちばんの話の中身は、恋愛と自立だったんじゃないかな。
恋愛って、ふうたろう、昔は相手と自分が融合すること(肉体的なだけではなく精神的にも)だと、極端にいえば思っていた。今思えばなんとも滑稽だけども。
もちろん、そんなものは幻想だ。相手は相手で、一人の人間のまま、自分も自分で一人の人間のまま、お互いが緊密に行動するだけなのだ。自分が相手の行動や感情を肩代わりすることはない。っていうか、してはいけない。昔のふうたろうを見ていて、そういうことをしてろくな目にあったためしがない。
よく、出会いがほしいとか、単刀直入に彼女(彼氏)が欲しいなどと言う。まあ、性欲的にいえば、人間そんなもんだと思うけど、性欲だけで異性がほしいなら、エロ本一冊なりエロビデオ一本なりを持っておけば充分。寂しさを紛らせたいのなら、結局誰でもいいってことにもなるし、それって浮気予備軍なんじゃないのかと思ったりもする。
出会いってのは、自分の意志で行動を起こすからあるものだと、思うんだ。そういうところで生まれた出会いってのは、本物だと思う。ふうたろうの場合、誰もいない山に単独で入って山と戯れているので、人との出会いそのものがない(滅)けど、出会いのために登るわけではないし、出会いというものは可能性の問題だとも思ってる。あのMariさんはそんな中の一人だった。実らなかったけど、とても重要な出会いだったと思うのだ。
ふうたろうには、まず、合コンなんてものに出会いを求める意思はない。出会いが目的になるなんて、ふうたろうにはありえない。共通するものもないのに、どうしていきなり話せるだろう。
極端で特殊な事例だけど、映画鑑賞やおしゃれが好きで、渋谷や銀座を闊歩しているような女の子と、山の中で雪や笹に埋もれながらもそもそして、空を眺めながら目をハートにするふうたろうと、合うとは思えない。もちろん、相手を嫌うという意味ではないけど、一緒に付き合うのは難しいだろうなと思う。合う人がいるとしたら、何らかの行動を一緒にする人だと思う。仕事でも、活動でも、趣味でも、何でもいい。
…というのがふうたろうの考えだけど、恐らく、別の人に言わせれば、別の恋愛観があるだろう。だから、これ以上とやかくは言えないね。
ただ、恋愛の対象に、自分の感情の肩代わりをさせ、無条件の肯定を求めるのだけはダメだと言い切る。相手のいいなりになったり、逆に相手をいいなりにさせたり、その関係だけは良くても、そのふたりが一旦外に出れば周りにも影響するだろう。ふうたろうの前にそういうのが現れたら、ふうたろうは、正直かなり鬱陶しく思う。そう思う人は、ふうたろうひとりだけではあるまい。
恋愛することの必要条件は、まずは自分の感情や行動で自立することだと思っている。ま、ふうたろう、そんな理屈ばかりいってるから、逃げられるのかもしれんな(黒笑
天気:くもり時々晴れ(東京都板橋区)