しおどき

2012年 4月 19日

 今日は夜、週一で行われるHKでした。ふうたろうは、改めてMSがなんのために存在するのか、を、考え込んでしまいました。「労働者」「農民」「医療関係者」というようなくくりの要求は存在しても、「青年」というくくりの要求は存在しえない。「青年の要求」って、なんだ?と。最近の傾向として、「自己肯定感が持てない」「コミュニケーションが取れない」などの問題もあるのかな、という気もしますが(実際ふうたろうがそうだった)。


 とりあえず、最近は、ある社会の問題を考えるときに、「その対象となっている問題の根本が経済的矛盾にあること」「その問題が究極的には政治を通して変えられる対象であること」を学習する場所がMSなのではないかと思い返すようになりました。
 実は、鍋会をする、誕生日会をする、ハイキングに行く、その他諸々の身近な「要求」を「実現」することを、ふうたろうも含めて、今までは「自己肯定感」を培う大事な場所だと思ってきたけど、ちょっと疑問に思えてきたのです。
 ところで、ふうたろうは山をやってて気が付きました。自己肯定は何の行動もなしにはできないし、人との対話も材料なしにはできないと。それこそ、ハイキングするなり、政治活動するなり、何でもいいから自分がやりたいものを先に見つけ出し、それをやっていく中で人との関わりが生まれる。行動に対して結果が出たり、評価し合ったりするから、それが自己肯定に繋がる。自分(たち)に話をする材料もないのに、いきなりどうしてコミュニケーションや自己肯定なんかできるんかと。
 感情的にいえば、何の(行動や思想に対する)共通点もない人と、まあ言ってしまえば話が噛み合うことのない相手と、鍋なんか囲みたくも、誕生日会なんかしたくも、ましてや一緒にハイキングなんかしたくも、ない。ただの遊びなら、自分一人でも、あるいは自分と気の会う人とでも、一緒にやった方がいい。
 例えば、ふうたろうがMSでコミュニケーションができるようになっていったのは、「同じ未来社会への方向を向いている」とか「政治・社会問題を深く掘り下げてみたい」とかいう共通点があったからだと思っています。あるいは山に登っている人同士で語り合うことにせよ、店に買い物に行ったときにスタッフたちと語り合うにせよ、そこには基盤となる山や商品取引というものが存在しています。自分が何を要求するのかも判らず、特に行動や思想もないのに、誰かと繋がるなんて不可能なんじゃないかと、最近は特に思います。行動・思想から出てきた結果に対する自他の評価を通して初めて、自己肯定感を持つことができるようになると思うし、逆に言えば、それ以外で自己肯定なんかできるのか、甚だ疑問です。
 MSの場合は、原発問題、消費税問題、労働者の使い捨ての問題、そういう個々の問題を学習する場というよりは、その個々の問題の根本(つまり社会のしくみとして)を掘り下げることに意味があるのだと、究極的には思います。窓口は非常に狭くなるけど、ある意味、これがなければ、MSの意味はないんじゃないかと。個々の学習をして「あーそーなんだ」なら、MSが「科学的○会主義」や「日本K産党綱領」なんかを学ぶ意味もないし、それを学んでいない多くの組織や講演会に行くだけで充分。ましてや、ただ「癒されたい症候群」のたまり場になるのだとしたら、ダルい集まりにしかならない。
 要求実現運動、であれば、まずは自分が明確な要求を持って行動すること。ふうたろうは山に登りたいので山に登る。化学が好きなので化学を勉強する。しかし、山に登るだけでも、化学を勉強するだけでもなくて、山に登っていて見えた問題、化学で学んだことをどう活かしていくかという課題、そういうものを見据える素材を与えてくれたのが今のMSであり、K産党であるのではないかと思うのです。
 ただ、今は、ふうたろうは山も化学も単独行動が主だし、科学的○会主義や綱領などを使えるレベルの研究なんてしてない。山や化学から見える問題や課題の掘り下げも不十分です。しかし、それを見据えて新たな発信ができるようになったとき、ふうたろうもようやく芽が出てくるのかなという気がします。
 …本来なら、そういう意味で、MSは、とっくに卒業してなきゃならんのですよ。ふうたろうは「青年の要求実現」の段階ではもう無いはず。


天気:くもり(東京都板橋区)
注釈:写真は2009年12月6日の富士山西部毛無山より見た富士山

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