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否定のシャワー

2008年 6月 16日

 始まりは朝起きた瞬間からでしたが、今日の舞台は富士見市です。
 非情なり、2ヶ月半前はあれほど元気だった彼女が、すっかり元気をなくしていました。
 念のため、僕の恋人、という意味ではありません。そんな人がいたら苦労しない
 理不尽な否定感のシャワーを浴びるというのは、人をかくも無力たらしめるのか。
 何も、否定の主語は他人でなくてもいい。自己でも、じゅうぶん無力になれます。まるで、呪いのように。
 人は最初から善人ではありません。
 人は最初から悪人でもありません。
 否定すればきりがありません。人は持っていないものの方が多いのですから。持っていないものを嘆くより、持っているもので闘うのが真剣勝負。僕も人のことは全然言えないけど。


 例えば、「僕には化学構造式は描けるけど経済学の価値理論は解らない」、というのであれば、経済学の価値理論を理解している人と一緒に「真剣勝負」すればいい。何と勝負するのかって?すべての困難に対してに決まってるじゃないか。この世はどちらかだけで動いているのではない。すべての微力の積み重ねが、その大小の和が、すべてを動かしているのですから。
 究極的に救いようがない人がいるとすれば、この「共同力」を絶対に理解できない人でしょう。あくまでもそういう人が"いれば"の話ですが。
 ちょっと話変わりますが、先週末から流行っている切り裂き魔的な事件の多発。あれだって、ニュースに対するコメントを見ていれば、マスコミも、書き込みしている人の9割以上も、犯人を悪者にして終わり。なぜ犯人がああなったのか、後追い的にそういう人が出てきているのか、考えていそうなものは見られません。
 もう一度いう。否定感は人を無力たらしめる。
 ただ「無力=殺人」とは限らない、というだけの話です。無力感の形態はいくらでもあるのです。ひとりひとりの話を聞いたことなんかないけど、あの攻撃性はどう見ても肯定されて生きてきた人のやることではない。僕からすれば、犯人もその犯人を蔑んだような目で見ている人たちも、同じ枠の中にいるようにしか見えません。なんと視野が狭く、無意味なことをやっているのだろうか!
 …少しでも自分たちを肯定できるものを探すことにエネルギーを使えばいいのに。

 今日の僕には、彼女(と彼)の話を聞くこと以外に、出来ることはありませんでした。恐らく、あの1時間半程度で、僕らの中で何か目に見えて進歩したものはないでしょう。
 僕は心理学も教育学も、精神医学も、アマチュアにさえ満たない。でも、そんな枠は、実は関係ない。「~のアマやプロ」なんてのは、社会通念上の方便であって、人の絶対価値ではない。僕はそれらの中には決して入らないけど、出来ることをやるまでです。たぶん、それがマジで出来る人が、「真剣」なんだと思います。本当に自己肯定できる人なんだと。


 そういえば、冒頭の写真について、コメント忘れていました。
 今日から、平日の鉄道のダイヤが改正されまして、首都圏の交通網は大混乱していました。なぜこれほどまでに混雑と混乱が起こったのか、研究が必要でしょうけど、乗り継ぎの便の悪さは、とにかく折り紙付きでした。出てくる乗客たちはいちいち表情が険しい。これじゃ、自己肯定感を育むどころじゃないよ…。

天気:くもり時々晴れ(埼玉県富士見市・朝霞市・所沢市・東京都板橋区)

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