無条件の”生”の中で
今日はいつもの作業が入ってくることはなかったけど、データ処理がいくつかありました。けっこう地味な作業で、眠い。途中、チョコレートをかじったり、Facebookに質量分析のことについて説明を書いてみたりして、目覚ましを図ったけれども、眠い。
夜、感染列島映画版がテレビで放映されていました。2009年頃、ちょうど新型インフルエンザが流行り始めた頃読んだやつで、あの時は病気の怖さにおびえたものだけど、死人の数だけ死別があることに、改めて気持ちが萎えます。
しかし、これだけ人がたくさんいて、平和にのほほんと暮らせていると、逆に死に対して鈍感になるのかもしれないね。簡単に「死ね」などと言ってしまうけど、本当に病気や戦争で、あるいは災害で、目の前で人がばたばたと死んでいく中で、それでも同じことが言えればある意味すごい。
感染列島を見ていて改めて思うけど、失ったあとで真実を知るのはなぜなんだろうね。あのシーンの中でも、身内を失って悲しんでいる人が、助かった別の家族が一緒に退院していくところを見て拍手しているのです。
そういえば、2年前の東日本大震災の時もその兆しはありましたね。改めて思うけど、人間(集団として)は何度も痛い目に遭わないと、本当の意味で優しくはなれないのですかね。いや、痛い目に遭わなくても、失うものを持っているだけでも違うのかも知れない。失うものというのは、カネやモノじゃなくて、愛する人だったり心のよりどころだったりするもの。ふうたろうのよりどころとするものなら、登山を通して感じるすべてのもの、かな。
ところで、
「ウイルスは宿主を死なせてしまえば自分も滅びる。矛盾してませんか。」
仁志さんという人(登場人物)が発した言葉だけど、これも含蓄のある言葉ですよね。
天気:快晴(東京都板橋区)